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震災の中で見出された空調設備業の使命
『快適な暮らし』を失った日
『快適な暮らし』を失った日
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 昨年4月に発生した大震災の影響で、多くの店舗や住民が立ち退きを余儀なくされた、熊本県益城町。そんな空室のひとつで、いま、一件の児童福祉施設がオープンを一週間後に控え、工事の真っ只中にあった。

 職員たちが静かに見守る中、空調設備業を営む河内が、慣れた手つきで最新の業務用エアコンを天井に取りつける。

「これからをここで過ごす人たちに、ストレス無く快適な空気の中で生活をして欲しい」。開業当初から掲げてきたそんな思いを胸に、まっすぐな眼差しで上を見つめる河内の表情は晴れやかだ。
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 現場がある熊本県益城町は、最大震度7を観測した熊本地震の震源地で、県内でも特に被災の激しかったとされる一帯だ。ブルーシートで覆われた家々の屋根や、コンクリートの壁面を走るおびただしい数の亀裂を見るだけでも、その被害が如何に凄まじいものだったのかを伺い知ることができる。
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「暑い時には涼しく、寒い時には暖かく。生きていく上で当たり前だったこの感覚が、当たり前ではなくなった体験こそ、今回の震災でした。発生したのは四月でしたが、家もなく電気も点かない生活は、とにかく寒く感じられました。そんな理由もあって、エアコンや給湯器の復旧を求める声は、震災直後からあったんです」
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誰かのためにできること
誰かのためにできること
 自らも被災する中で、始めは戸惑い、苦しんでいた河内。けれども周りを見渡せば、飲食店のスタッフは率先して炊き出しを始めていたし、コンビニでレジを打っていた店員も、自分のことは後回しに、休みなく働いていた。
「途中、炊き出しのおにぎりを一つだけいただいたんです。感謝してゆっくりと食べながら、生かされたこの一日を、ただ地震速報を聞いて過ごすなんてできるわけがない、俺も誰かのためにできることをしよう。そのとき、素直にそう思えたんです」
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 震災発生当時、ほとんどの家で滞っていた給湯器や空調の修理。それは、日常的に空調に携わり、メンテナンスを行なってきた河内にしかできない仕事だった。

「みんな、暖かさに飢えていたんです。自分も被災している中で、お湯が出ない辛さは身にしみて感じていたので、一軒また一軒と作業を終えて感謝の言葉を受け取るたび、この仕事に使命のようなものを感じました。たかだかエアコンの修理に使命だなんて大げさに思われるかもしれませんけど、本当に今は、生まれ変わってもまたこの仕事がしたいと思っています」
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熊本で、生きていく
熊本で、生きていく
 大分で生まれ、すぐに福岡へ。以来、空調設備の仕事に就いてから今日までをずっと熊本で過ごしてきた河内にとって、いつしかそこは第二の故郷とも呼べる場所になった。

「熊本の人は、とにかく親切。その一言に尽きます。この街に骨を埋めようと思ったのは、もともとよそ者だった自分にも周囲の人が親身になってくれたからでした」
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 けれど、熊本がかつての活気を取り戻すためには、まだまだ時間がかかるだろう。そのことを熊本に住んでいない人たちに伝えたい、と河内は熱を込めて話す。

「震災からまだ一年も経っていないのに、あるお客様から(震災が)随分前のように感じられると言われ、ショックを受けました。熊本にはまだまだ人の助けが必要で、今も必死で頑張っている人たちがいる。そのことは、絶対に忘れて欲しくないんです」
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——— 震災を通じた経験から仕事のやりがいに気づいた河内にとって、プロフェッショナルとは、どのような人物を指すのだろうか。最後に聞いた。


「地震が起きたその瞬間、誰もが家に帰りたかったはずです。そこには帰りを待っている人や大切な人がいたかもしれない。でもみんな、すぐに自分の仕事を始めたんです。コンビニの店員さんも、居酒屋の従業員さんも、職種は関係ありませんでした。仕事に誇りを持ちながら、その仕事がどこかで誰かの役に立っていることを理解していること。それこそ、自分が震災を通じて感じたプロフェッショナルな仕事でした」


※熊本市より特別な許可を得て、撮影を行っております。
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1974年11月28日
(大分県佐伯市)

職種:空調設備業

職歴:17年

会社名:株式会社つくす

理想の走行を求めタイヤをチューンナップし、運転席周りもカスタム。仕事のサポートだけでなく、震災時の車中泊にも対応する居心地を追求した。