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大公開!GT-R開発秘話

ベイサイドブルーのR34 GT-Rに乗る吉川。気付けば付き合いはもう15年近く、走行距離は13万kmに達している。
実は吉川は、R34 GT-Rの実験領域の責任者だった。当時の話を尋ねたところ、開発の舞台裏を話してくれたのでここでご紹介しよう。

「R33にGT-Rはいらない」という空気を覆すために

S54型やGC10型に憧れ、スカイラインを作りたいという思いを抱いて日産自動車に入社した吉川。入社2年目からR30スカイラインを担当したのを皮切りに、スカラインに携わった年数は異例の30年以上という。その中でも思い出に残るのが第2世代のスカラインGT-Rだ。
「ちょうどR32 GT-Rの開発が終わり、次をどうするかという議論が行われている頃。そこに渡邉衡三さんと私が入る形になったんです。渡邉さんからは『お前は次のGT-Rのことだけを考えればいい。そのかわりこの企画が通らなかったらクビだ』と言われてね。ところが社内にはR32 GT-Rを超えるクルマはそう簡単に作れないという空気が流れていたんです。しかもR33はホイールベースを伸ばしてジェントルなイメージになる。『R33にGT-Rはいらない』といろいろな人からか言われましたよ」
スカイラインGT-Rを任されて、その入り口に立った吉川に訪れた、いきなりの窮地。
R33 GT-Rを生み出すためには、R32 GT-Rにまだまだ伸びしろがあることを示さなくてはならない。そこでR33 GT-Rの先行実験と並行する形でR32 GT-Rの企画が動かされた。そして誕生したのがR32 GT-R Vスペックだ。 R32 GT-R VスペックがなければR33、さらにR34へと続く第2世代GT-Rの進化は途絶えていただろう。さらに現行型R35GT-Rも生まれなかったはずだ。それほどまでにR32 GT-R Vスペックの開発は意味のあるものだった。
VスペックでGT-Rのステップを示したのとほぼ同時期、R33の先行実験でも「これならGT-Rという名をつけても恥ずかしくない」と言える道筋が見えてきた。Vスペック登場にGT-Rファンが沸く裏で、R33 GT-Rの開発は粛々と進められていった。

「もっと…」という開発者たちの思いから生まれたR34 GT-R

「R33 GT-Rがファンの間で賛否両論あることは分かっています。しかし私にとっては企画から製品として世に送り出すまで、本当に苦労の多かったクルマ。完成した時は達成感もあったし出来にも納得していました。ところが開発屋の性で、すぐに『もっとこれをやりたい』という気持ちが生まれてきます。当時、R33 GT-Rがデビューし、ジャーナリストやレーシングドライバーの方々に乗っていただく時は『いいクルマでしょう』と説明していました。でも、心の中では”次はこの部分をこうすればもっと良くなるかもしれない”という構想を巡らせていましたね」
開発陣の次へ向かう気持ちは、そのままR34 GT-Rへと向けられてゆく。R33とは打って変わり、R34の開発はとてもスムーズだったという。実験プロセスなどGT-Rとしての開発の作法が最初から明確になっていた。また車体剛性はあまり効率のいい方法ではなかったR33と違い、R34では計画段階からいい方向に持っていくことができた。

誰もが意のままに操る走りの楽しさがGT-Rに必要な性能

「R34 GT-Rは、本当の意味でやり尽くしたモデルです。これ以上やるためには、もっと根本的なところ――たとえばエンジンの搭載位置を変えるなどしなくてはならない。もちろんそれは簡単ではありません。ファンにとってR32、R33、R34はそれぞれいろいろな思いがあることでしょう。でも私にとってはほとんど同じクルマと言ってもいい。もちろん見た目は違いますが、基本的には同じものをとことん磨き上げている。R32の正常進化をやり尽くしたのがR34です」
吉川をはじめとする開発陣が第2世代GT-Rを同じクルマだという理由は、R32からR34まで、GT-Rとしての一貫した理念があったからにほかならない。ひとつはGT-Rのエンブレムを付ける上で絶対に必要な速さ。ナンバーワンと呼べる速さを手に入れること。もうひとつは誰が乗っても『意のままに操れる』と思えるクルマでなくてはならないというものだ。
「日産では80年代から901活動と呼ばれる“90年代までに技術で世界一になる”という目標がありました。その中でフロントとリアのマルチリンクサスペンションやATTESA E-TSが生まれ、R31で初搭載したHICASもさらに磨いてスーパーHICASへと進化しました。大雑把な言い方になりますが、技術があればどんなクルマでも作れるもの。そこで好き勝手なクルマを作ってしまうのは開発者のエゴでしかありません。日産としてどういうクルマを世に出すべきかを考えた時、私たちは『意のままに操る走りの楽しさ』という結論に達しました」
ステアリングを切ったら期待通りに動く。何も操作していないときは意に反した動きをしない。さらにクルマからのインフォメーションがドライバーに伝わり、ドライバーとクルマがきちんとコミュニケーションできる。設計担当と実験担当が何度も議論を重ね導き出したのが“意のままに操れるクルマを作る”。速さが増しても、そのぶん操作性が向上いていなければ意味がない。ツインボールベアリングセラミックターボ、ゲトラグ製6速マニュアルトランスミッション、ブレンボ製ブレーキ、専用開発した245/40ZR18サイズのポテンザRE040、そしてVスペックのフロント&リアディヒューザー……。すべては“あらゆる状況下で『意のままに操る走りの楽しさ』を向上させる"という目標のために採用されたものだった。

日常でもクルマと繋がる楽しさを味わえるのが日産車の魅力

スカイラインに憧れて日産自動車に入社した吉川。そして今、日産自動車には吉川と同じように第2世代GT-Rに憧れて入社した多くの社員がいる。実は、以前にっちゃんで紹介したR-34 GT-Rに乗る社員、伊藤(写真下・左側)もそんな後輩の一人。伊東は、もともとR34 GT-Rに憧れて日産に入社。その後、偶然吉川と同じ部署に配属となった。憧れのクルマの開発に関わった人物と働ける、ということは、伊東にとって夢のようなことだったという。

こんな熱い後輩社員に向け、吉川は謙遜しながらもメッセージを贈ってくれた。
「私がスカイラインに憧れたのは、クルマは見ているだけでドキドキできる血の通った道具だと感じたから。乗ればクルマと人がコミュニケーションを楽しめる。これこそがクルマの気持ちよさに繋がるものです。クルマと繋がる気持ちよさは、限界領域での話だけではありません。ゆっくり走っていても繋がっていると感じられた時は嬉しいものです。私は日産に入ってこれをずっと追求してきたし、今後もそうあってほしい。この点において、少なくとも現在は他社よりも日産が抜きん出ていると思っています。これからも"クルマと繋がる気持ちよさ"を大事にしていってほしいですね」
2013年8月、定年退職を迎えた吉川だが、ものづくりの楽しさ、クルマづくりにかける思いは、次の世代に確実に受け継がれている。