お誕生日
おめでとうございます!

この1年があなたにとって
幸福に満ちた、
すばらしい年でありますこと
を心よりお祈り申し上げます。

これまで共に歩んできた
想い出と共に、
あなたの過ごした
青春時代を彩った様々な出来事を、
日産車の歴史にのせ、
まごころを込めてお届けします。

あなたの青春時代の自動車

プリンス スカイウェイ 1960年

プリンス スカイウェイ 1960年

スカイラインは「高性能セダンとクーペ」というイメージがすっかり定着していますが、過去のモデルにおいては、ステーションワゴンやハッチバックといった、実用性の高いモデルも存在していました。1959年(昭和34年)に誕生したスカイウェイは、初代スカイラインの高級コマーシャルカー(商用車)としてラインアップされていたモデルです。直列4気筒1484cc・OHVを採用したGA4型エンジン(GA30型60馬力から70馬力にアップ)、ダブルウィッシュボーン式のフロントサスペンション、ド・ディオン式リヤサスペンションなど、基本的なメカニズムはセダンと共通で、商用車でありながらフルシンクロ4段トランスミッション、チュ-ブレスタイヤを採用するなど、先進性が話題になりました。このスカイウェイには、2ドアおよび左後席側にもドアを設けたバンと、ピックアップ(トラック)がありました。また、のちのマイナーチェンジでは、よりパワフルな1862ccのGB4型エンジン(91馬力)も搭載されました。

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ダットサンフェアレディ SPL213 1961年

ダットサンフェアレディ SPL213 1961年

ダットサンフェアレディ(SPL212 型)は1960 (昭和35) 年1 月から北米輸出専用車として発売され、小型スポーツカーとして自動車先進国アメリカで一定の評価を獲得しました。 同年10 月にSPL213 型へとマイナーチェンジを受け、従来と同じ1189cc エンジンながら圧縮比を7.5 から8.2 に変更するなどで48psから55ps へパワーアップされます。 これらダットサンフェアレディシリーズの生産台数はSPL212・213 型合計でも500 台程度だったため、現存する車両は貴重です。 このクルマは大きな曲線を描くモールで分割された赤と白のツートーンカラーがおしゃれなSPL213 型で、L は左ハンドル(left-hand drive)を示す記号です。

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ダットサンブルーバード 1200デラックス 1962年

ダットサンブルーバード 1200デラックス 1962年

1959年(昭和34年)の発表会で12万人もの人出を集めた初代ダットサンブルーバード(310型)は、1960年3月には累計2万台を出荷、対米輸出も始まりました。10月にトランスミッションをフルシンクロに進化させた311型 が登場。そして1961年8月にはテールランプを大型化した312型がデビューしました。312型は、2度のマイナーチェンジを受け、フロントグリルはフラッシャーランプを一体化してワイド化され、イメージを一新しています。インテリアではメーターパネルのデザインを変更、トランクの開閉がキー操作で可能になり、トランクリッドを閉めるとロックされる機構が備わりました。このクルマは、1963年に行われた全国花の親善使節の公式車両「フラワーカー」に選ばれ、全国の郷土の花を、皇太子殿下と美智子妃殿下のご結婚記念として神奈川県に建設中だった「こどもの国」に届ける、朝日新聞社と46都道府県主催イベントの大役を果たした実車です。わずか40日で全国一周するこのキャンペーンにブルーバードが選ばれたことは、その優れた操縦性、乗り心地、耐久性が高く評価されたことを意味していました。ボディには全国の県花と県知事のサインが署名されています。

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プリンス・スカイラインスポーツ・クーペ 1963年

プリンス・スカイラインスポーツ・クーペ 1963年

1960(昭和35)年のトリノショーで発表され、翌年日本でのお披露目を経て1962(昭和37)年4月に発売されたスカイラインスポーツは、イタリアの著名デザイナー、ジョバンニ・ミケロッティがスタイリングを手がけたクルマです。生産にあたっても、ボディはイタリアから職人を招聘して技術伝承をしながら手作業での製作という未曾有の工程を採っていました。エンジンとシャシーはグロリア用を流用。1862ccの直列4気筒エンジンは94馬力を発生。価格はクーペ 185万円、コンバーチブル195万円と、現在の貨幣価値換算で2000万円以上に相当する高価格車だったため、生産台数は約60台にとどまりました。

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セドリック カスタム 1964年

セドリック カスタム 1964年

1960年(昭和35年)デビューした初代セドリック(30型)は、日産自動車初となるモノコックボディを採用しました。エクステリアでは縦目4灯式ヘッドランプのデザインが特徴的でした。初代グロリアの登場と同じ1962年にマイナーチェンジを受けたこの31型は、H型88馬力エンジンを搭載。中型車として必要十分なパワーを誇りました。外観で目を引くのは、30型よりも低く安定感のある横目4灯式ヘッドライトです。この横目4灯式は、後の高級車にも影響を与えた斬新なデザインで、話題を集めました。インテリアでは、ホイールベースが初代よりも60mm伸びて2690mmとなり、国産の中型車では最長クラスを誇り、高い評価を獲得しました。31型は国産車初の前進3段式完全自動変速機(トルクコンバーターAT)の採用による滑らかな走り、室内のゆとりや快適性が向上し、性能も高級車にふさわしいものとなりました。

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ダットサン フェアレディ 1500 1965年

ダットサン フェアレディ 1500 1965年

1961(昭和36)年秋の第8回東京モーターショーで話題をさらったダットサンフェアレディ1500(SP310型)は、1962年10月に国産初の本格的スポーツカーとして発売されました。 ダットサン310型(初代ブルーバード)のシャシーとセドリック30型のエンジンをベースにしたもので、当時のMGやトライアンフ等の欧州のスポーツカーに近いフォルムをまとっています。 搭載された1,488ccのG型OHVエンジンは初期のスペックで最高出力71馬力、最大トルク11.5kg-mを発生し、1963年以降は、輸出仕様と同様にSUツインキャブレターを採用し80馬力にパワーアップされました。このクルマは、フレームやボディを含めフルレストアされ、ターンシグナルやアンテナ等を含めオリジナルに近い状態を取り戻しました。

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シルビア 1966年

シルビア 1966年

1964年(昭和39年)の東京モーターショーでデビューし、翌1965年4月にリリースされたのが、初代シルビア(CSP311型)です。車名はギリシャ神話の美しい女神である「シルビア」に由来し、その名にふさわしい流麗なエクステリアが特徴でした。 初代シルビアは、フェアレディ 1600(SP311型)のR型エンジンとシャシーをベースに、豪華な革内装のインテリアなど、セミカスタムメイドで仕上げられました。そのため、1965年(昭和40年)3月から1968年(昭和43)6月までの3年間に554台が生産されたにとどまりました。当時の価格はセドリックを超える120万円と、若者が憧れる高嶺の花というべきモデルでした。元祖2ドアクーペのスペシャリティカーとして、また、第三京浜国道のパトカーに採用されるなど、大きな注目を集めました。

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ダットサン ブルーバード1300 1967年

ダットサン ブルーバード1300 1967年

このブルーバードは、メキシコ日産・クエルナバカ工場で生産された左ハンドルのPL411型で、型式名のLは左ハンドルを示しています。1966(昭和41)年4月以降の411型は、初期の410型とはリヤフェンダーなどのデザインが大きく変更されました。 このクルマは、1968年のメキシコオリンピックに先立ち、1967年10月にメキシコ市で行われた「第三回国際競技大会」で、日本選手団に提供されたため選手のサインが残されおり、その多くがメキシコ五輪の選手と重なっています。なお、メキシコ五輪では男子体操、レスリング、重量挙げなどで大健闘を見せ、金11、銀7、銅7のメダルを獲得。中でも男子サッカーの銅メダルは、現在でもよく知られているところです。

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ダットサンサニー1000 スポーツデラックス 1968年

ダットサンサニー1000 スポーツデラックス 1968年

1966 (昭和41) 年4 月に誕生した初代ダットサンサニーは、開発主査を務めた園田善三をはじめ、若手が開発の中心を担いました。搭載されたOHV のA 型エンジンは988cc から56 馬力を発生し、直線基調の軽快なスタイリング、SS1/4 マイル20.6 秒、最高速度 135km/h の高性能で幅広いユーザーを獲得しました。 翌年4 月には4 ドアセダンが発売され、4 速マニュアル・フロアシフトのスポーツ・シリーズとクラス初の3 速オートマチック車が追加されました。 同年7 月のマイナーチェンジではフロントグリルなどのデザインが変更されます。のちにはトラックやクーペが追加されてワイドバリエーション化し、日産で最量販の人気モデル へと成長しました。このクルマはスポーツデラックス仕様です。

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スカイライン 2000GT-R 1969年

スカイライン 2000GT-R 1969年

プリンス自工との合併を経た1969 (昭和44) 年2 月、日産の技術の粋を集めた「スカイライン2000GT-R」が誕生しました。ツーリングカーレースを闘うために生まれたこの「GT-R」は、おとなしい外観のセダンボディ* に、打倒ポルシェを期して開発されたプロトタイプレーシングカー「R380」のノウハウを満載した、当時の常識を超えた高性能車でした。特にそのエンジンには、R380 用エンジンを市販車用に再設計した、量産車として世界初の4 バルブDOHC 機構が採用されていました。 実戦では、発売から3 ヶ月後の5 月「JAF グランプリ」にてデビューウィン。その後も、熟成開発を重ねながら台頭してくるライバルたちを抑え続け、ついに1972年(昭和47 年)3 月、前人未踏の累計50 勝を達成。同年10 月のワークス活動休止までに通算52 勝という大記録を打ち立てたのです。 *1970 年秋からは2 ドアハードトップボディ専用

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ダットサンサニー1200 2ドアセダン GL 1970年

ダットサンサニー1200 2ドアセダン GL 1970年

マイカーブームの幕を開け、大衆車というジャンルを確立した初代モデルの好評を受け、2代目ダットサンサニー(B110型系)は1970年(昭和45年)にデビューします。従来のスピード感あふれるファミリーカーのイメージを引き継ぎながら、時代を象徴する「豊かさ」を盛り込んだスタイリングを実現しました。また、CMではライバル車よりも豊かなクルマであることをアピールする、「隣のクルマが小さく見えます」というキャッチフレーズを採用して注目を集めます。その室内空間は、当時の大衆車クラス最大の広さを誇り、メーターやスイッチ類、シートなどの細部にも、豊かさやおおらかさを追求。装備面では雨天でも窓を閉めたまま、快適に換気ができるオート・ベンチレーション・システムを、クラス初採用したほか、インストルメントを衝撃吸収構造にするなど、安全性も向上させました。この1200GLというグレードには、直列4気筒OHV・1171ccのA12型エンジン(68馬力)を搭載しています。

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スカイライン1500スポーティGL 1971年

スカイライン1500スポーティGL 1971年

日産・プリンスの合併を経て1968(昭和43)年に3 代目へとフルモデルチェンジしたC10 型スカイラインは、後の「ハコスカ」の愛称でも有名です。 先代S5 系よりも全長で105mm、全幅で100mm 拡大する一方で全高を20mm 下げるなどロー& ワイド化しました。 エッジの効いた面構成も特徴で、特にリアフェンダーに走るプレスラインは、メーカー自ら流体力学の粋として訴求し、後に「サーフィンライン」の名前で親しまれました。 1971(昭和46)年秋に「1500 ハードトップ」が追加されると同時に1500cc 直列4 気筒OHC のG15 型エンジンは88ps から95ps へ出力向上し、新たに「スポーティGL」も追加されました。 このクルマは4 速フロアシフトの1971 年式スポーティGL で、前輪ディスクブレーキ、タコメーター、熱線リヤウィンドウを標準装備しています。

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フェアレディ240ZG 1972年

フェアレディ240ZG 1972年

「240Z」は、1970(昭和45)年当初は主に北米向け輸出専用に設定されたモデルで、海外での人気を耳にした日本のファンの声に応える形で、日本でも1971 (昭和46)年11 月に追加されました。搭載されたのは2393cc のL24型エンジンで、最高出力は150ps、最大トルクは21.0kgm と、当時の国産スポーツカー最大級のパワーユニットでした。 日本でのグレード展開は240Z・240Z-L・240ZG の3 種で、中でも、この240ZG は最上級グレードです。 外観上の最大の特徴は、「G ノーズ(エアロダイナ・ノーズ)」といわれたフロントエンドで、FRP製のノーズピース、ヘッドライトカバー、ワイドタイヤを収める前提のオーバーフェンダーを装着しています。 空気抵抗係数を示すCd 値=0.390 と当時のスポーツカーでもトップクラスの小ささで、最高速度は210km/hに到達。 トランスミッションは5MT に加えて、3 速AT も用意され、グランドツーリングカーとしての資質も備えていました。

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チェリークーペ1200X-1 1973年

チェリークーペ1200X-1 1973年

日産初のFF(フロントエンジン・フロントドライブ)車として生まれたチェリーは、1971年(昭和46年)9月に、より若々しくスポーティーなクーペを追加設定しました。その上位モデルであるX-1(エックス・ワン)は、直列4気筒OHV・1171ccのA12型エンジンのキャブレターを、SUツインキャブ仕様に変更して80馬力の最高出力を獲得。その斬新で独特なハッチバックスタイルは、当時の若者たちを魅了し、大人気となりました。レースでは、排気量を1298ccに拡大するなどのチューンにより、最高出力を桁違いな135馬力にまで高め、同型エンジンを積む後輪駆動のサニーとともに、TSレースで活躍を見せました。FFのメリットをフルに活かし、雨のレースに圧倒的に強く、大きな水しぶきをあげながら疾走する姿が、とくに印象的でした。

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スカイライン ハードトップ2000GT 1974年

スカイライン ハードトップ2000GT 1974年

1972(昭和47)年9月発売の4代目スカイライン・C110型は、先代で確立した独自の個性をそのままにボディサイズを拡大し、個性的な「サーフィンライン」は継承しつつ、一転してソフトで流麗なスタイリングになりました。後に伝統となる、ジェット機の噴射口を模したリング型の4灯テールランプがここで初採用されます。 また、先代「愛のスカイライン」の延長として展開された「ケンとメリーのスカイライン」のキャンペーンが爆発的にヒットし、ロゴ入りTシャツが大人気になるなど、約5年の販売期間に亘って社会現象のような熱狂ぶりでした。この結果、「ケンメリ」の愛称で知られるC110/C111型は累計販売約66万台に及ぶ大ヒット車になります。このクルマは1974(昭和49)年式の2000GTで、初期イメージカラー「ブライトブルーメタリック」へ再塗装されています。

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ローレル 2000SGX 1975年

ローレル 2000SGX 1975年

1972年(昭和47年)4月にデビューした2代目ローレル(基本型式C130型)は、ハイオーナーカーのコンセプトを継承しつつ、70年代を象徴するにふさわしい、「豪華さと高品質を誇り得るクルマ」として登場しました。エクステリアは、サンダーストリームと名付けられたシャープなふくらみが特徴でした。また「ゆっくり走ろう・ゆっくり生きよう」というキャッチコピーもローレルのゆとりを表す特徴的なメッセージでした。ボディは4ドアセダンと2ドアハードトップを設定。セダンには耐久性に優れたリーフリッジットサスペンション、ハードトップには操縦性に優れたセミトレーリングサスペンションが設定されました。エンジンは直列4気筒のG18型とG20型、直列6気筒のL20型が設定されました。2000SGX にはL20型にSU ツインキャブでハイオクガソリン仕様の130馬力、レギュラーガソリン仕様の125馬力があり、このクルマはレギュラーガソリン仕様です。

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ニュー・シルビア LS タイプS 1975年

ニュー・シルビア LS タイプS 1975年

1975年(昭和50年)にデビューした2代目シルビア(S10)車の正式名称は「ニュー・シルビア」で、エンブレムにもNEWの刻印が入れられていました。1965年(昭和40年)に登場した初代シルビアは2シーターのスタイリッシュなクーペでしたが、2代目は当時人気の高かったスポーツ&スペシャリティカーとして開発され、乗車定員は5名としています。彫りの深いフロントビューやサイドまで回り込んだリヤコンビネーションランプ、ウェッジシェイプを採り入れたサイドのキャラクターラインなど、斬新なスタイリングが話題を集めました。ピラーレスのハードトップボディも当時の流行のひとつです。インテリアは、丸型タイプの4連メーターを備えたダッシュボードやバケットタイプのシートなどを採用したスポーツライクな味わいにあふれています。開発段階ではロータリーエンジンの搭載も囁かれましたが、実際にはブルーバードUから譲り受けたL18型1800cc直列4気筒のOHCが搭載されました。当初はシングルキャブ仕様でしたが、翌年には電子制御燃料噴射装置EGI装着車も登場しています。トランスミッションは4速MT/5速MT/3速ATの3タイプが設定されていました。

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ダットサンブルーバード 1800SSS-E・S 1976年

ダットサンブルーバード 1800SSS-E・S 1976年

5代目となる810型ブルーバードは、1976年(昭和51年)にリリースされました。3代目の510型でスポーティなイメージに磨きをかけたブルバードですが、810型が登場した1970年代の半ばは、オイルショックの勃発や、排出ガス規制対応など、クルマにとっては受難の時代でした。810型は、排出ガス規制に対応するための燃料噴射制御(ECGI)やNAPS(ニッサンアンチポリューションシステム)の導入や、ELR(エマジェンシーロックリトラクタ)付ベルトの採用等による衝突安全性能の向上に力が注がれました。このクルマは最上級スポーツ仕様の1800SSS-E・Sです。

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セドリック 2800SGL 1977年

セドリック 2800SGL 1977年

高級車・セドリックの4代目として、1975年(昭和50年)6月に330型系が発売されました。重厚でフォーマルな4ドアセダンのほかに、2ドアと4ドアのハードトップも用意されました。このクルマは、直列6気筒OHC・2753ccのL28型エンジン(最高出力140馬力)を搭載した1977年式(昭和52年)でP331型で、通常のモデルと少し変わった外観なのは、朝日新聞社が同年、アジアハイウェー1号線(A1ルート)沿線の文化・経済や人々の生活を紹介する連載記事を掲載するための取材車として、ワークスラリー車同様、追浜の特殊車両実験課で改修され、取材で使用された車両そのものだからです。トルコのイスタンブールとベトナムのサイゴンを結ぶ、2万3000kmもの長大な現代のシルクロードともいえる道を、取材活動をこなしながら85日間をかけて、無事に全行程を走破しました。

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フェアレディ 2シーター 280Z-L 1978年

フェアレディ 2シーター 280Z-L 1978年

1978年(昭和53年)8月、フェアレディZは2代目のS130型にフルモデルチェンジしました。2000cc のZ と2800cc の280Z の2系統があり、エンジンはどちらもL型の直列6気筒でした。スタイリングは伝統のロングノーズ& ショートデッキながらボディーサイズが拡大されたため、2シーター、2by2(ツーバイツー)ともに室内スペースが拡大しました。1982(昭和57)年には、2リッターのZと280Z をベースにしたターボモデルがそれぞれ日本と米国で登場、大ヒットになりました。このクルマは、最高出力145馬力のL28E型エンジンを搭載する初期のモデルです。

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プレジデント ソブリン 1980年

プレジデント ソブリン 1980年

プレジデントは、日産がもつ最高の技術と品質を誇る最高級セダンとして、前身に当たる50型セドリックスペシャルの発展形として1965(昭和40)年10月に初代モデル(150型)が誕生。1973(昭和48)年に250型へチェンジしました。 このクルマは、1977年(昭和52年)に53年排ガス規制への適合化を図り、型式名を252型とした車両の1980年(昭和55年)製です。最上級グレードとして設定された「ソブリン」は、その大きく威厳のあるスタイルに、V型8気筒OHV・4400ccのY44型エンジン(最高出力200馬力)を搭載。公用車やハイヤーなどとして、多くのVIPの方々を広々とした後席へお迎えし、快適な移動を提供しました。

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スカイライン ハードトップ2000ターボGT-E・S 1981年

スカイライン ハードトップ2000ターボGT-E・S 1981年

日本を代表する高性能車として、高い人気を誇るスカイラインは、1981年(昭和56年)8月、6代目(R30型系)へと進化を遂げました。スカイラインは代々、オーナーの方や多くのファンの方々から、その時代ごとにニックネームを授かっていましたが、このモデルでは、米・映画俳優の大御所で、カーマニアでレーシングドライバーでもあった故ポール・ニューマン氏をイメージキャラクターに起用。このことから「ニューマンスカイライン」と愛称されました。主力となる2000GTの上級モデルには、量産車として世界初の、ショックアブソーバーの減衰力を手許のスイッチで切り替えられる「フットセレクター」などの革新技術を惜しみなく投入。 このクルマは、フットセレクターを装備し、ターボエンジン付きのL20ET型エンジン(最高出力145馬力)を搭載した、スポーティーグレードです。

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レパード 2ドア ハードトップ ターボSGX 1982年

レパード 2ドア ハードトップ ターボSGX 1982年

レパードは、スカイラインやローレルに続く上級スペシャリティカーを目指して開発され、1980年(昭和55年)9月に初代モデルが発売されました。4ドアハードトップと2ドアハードトップのボディタイプがあり、エンジンはZ18型の1800cc、 L20型の2000cc、L28型の2800ccを設定。上級グレードには、本革シートやオートクルーズコントロール、4つの機能を一つに集約したマルチ電子メーターなどが標準装備され、また当時では世界初のワイパー付きフェンダーミラーも備わるなど、上質で充実した装備が大きな特徴でした。1982年(昭和57年)9月にはマイナーチェンジが実施され、世界初の光通信ステアリングスイッチが採用されるなど、充実装備にさらに磨きがかかりました。このターボSGXは、1981年に追加設定されたターボ車の上級グレードです。145馬力を発揮する、2000cc・直列6気筒OHCのL20ET型エンジンが搭載されていました。

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ローレル 2000E メダリスト 1983年

ローレル 2000E メダリスト 1983年

ローレルの4代目モデル、C31型は1980年(昭和55年)に発売されました。スラントノーズや低いフードなどによって、「アウトバーンの旋風」のキャッチフレーズのもと、空気抵抗係数(Cd値)0.38という優れた空力性能を実現していました。歴代ローレルで初となるターボチャージャーやECCS(電子制御エンジン集中制御システム)を採用、オートレベライザー(自動車高調整装置)や日本初のオートシートセッター(無段調整シートリフター)、マイコン制御オートエアコン、高級オーディオを装備するなど、快適性を一段と向上させていました。現在では当たり前となった足踏みPKBを、世界で初めて採用しました。エンジンは直列4気筒のZ18型、Z20型、直列6気筒のL20型、L20E型、L20ET型、L28E型、ディーゼルのLD20型、LD28型の計8機種を揃え、基本車種はセダン14車種、ハードトップ9車種と充実していました。このメダリストは、ガソリン車の2000cc、2800ccの両モデルに設定された最上位グレードで、オートレベライザー、マイコン制御オートエアコン、高級オーディオ、ASCD(オートスピードコントロール)などが標準装備されていました。

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プレーリー JW-G 1984年

プレーリー JW-G 1984年

1980年代初期には、まだミニバンというカテゴリーが存在せず、多人数が乗れるクルマといえば「バネット」や「キャラバン」のようなワンボックスワゴンがあるだけでした。そのような中、初代プレーリー(M10型)は、1982年(昭和57年)8月、それまでなかった未来型セダン/マルチユースセダンとして、時代を先取りした形で発売された「世界初のミニバン」です。駆動方式はFF(フロントエンジン・フロントドライブ)。低くて平らなフロア、センターピラーのない大きな開口部のボディと両側スライドドアの採用で、従来の乗用車では実現できなかった優れた乗降性を実現し、併せて多彩なシートアレンジも可能にするなど、まさに今日のミニバンの草分け的な存在でした。JW-Gは8人乗りと5人乗りのセダンと3人乗り+400kg積と6人乗り+200kg積エステートの2タイプもありました。エンジンバリエーションは1500ccのE15Sと1800ccのCA18型の2種類。2列目シートが2名分回転する「回転対座シート」のオプション仕様もありました。

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ブルーバード マキシマ 4ドアハードトップ V6 2000ターボ ルグラン 1986年

ブルーバード マキシマ 4ドアハードトップ V6 2000ターボ ルグラン 1986年

ブルーバードの7代目モデルとなるU11型は、1983年(昭和58年)に10月に駆動方式をFF(フロントエンジン・フロントドライブ)に変更して登場。先代の910型までは「ダットサン・ブルーバード」の名称でしたが、このモデルを機に「日産・ブルーバード」へ正式名称が改められました。マキシマは、その上級シリーズとして翌1984(昭和59)年10月に追加されました。 日本のFF車では初となるV6エンジンを搭載しており、エレガントシリーズやSSSシリーズよりも250mm長い、スラリと伸びたノーズが特徴でした。「ルグラン」は上級のマキシマ中、最上位のグレードで、2ℓのV6エンジンを搭載し、170馬力の最高出力を発揮。さらに、高級オーディオ、超音波式電子制御サスペンションなどが標準装備と、装備も充実していた。

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ニッサンBe-1 1987年

ニッサンBe-1 1987年

やすらぎや安心感を追求した「ここちよさ優先のナチュラルカー」として1985 年(昭和60 年)の第26 回東京モーターショーに参考出品されたBe-1(ビーワン)は、1,000cc エンジンを搭載した初代マーチ(K10型)をベースにしながらも、どこか懐かしさを感じさせる愛くるしいスタイリングが会場で大きな話題となりました。 車名は「B-1 案」だったデザイン案の呼び名を「Be 動詞」へ翻案して命名され、「あなたの1 台になります」というメッセージも込められていました。1987 年(昭和62 年)1 月に限定10000 台で発売されると、高い前評判から10000 台を超える受注が殺到し、購入者を抽選で決定する異例の事態となりました。当時の中古車市場でもプレミアがつくなど、一種の社会現象として記憶され、その後のPAO やFIGARO へ続く日産パイクカーシリーズ誕生のきっかけを作りました。 ここでの「パイク」とは、「槍の先」の意味で、少量限定生産 を前提に、強い個性と遊び心があり、とんがった性格のクルマを指しています。

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シルビア Q’s 1988年

シルビア Q’s 1988年

「アートフォース・シルビア」のキャッチコピーとともに1988 (昭和63)年5月に登場した5代目シルビア(S13型)は、均整のとれたクーペらしい美しいボディラインが受け入れられ、若者を中心に多くのファンを獲得しました。 ほどなく通産省選定グッドデザインと日本カーオブザイヤーを受賞し、その美しさと人気が証明されます。 一方で、FR(フロントエンジン・リヤドライブ)の駆動方式ならではの走りの楽しさも人気を集めました。 初期型のエンジンは全車1800cc のCA18 型DOHC で、J's とQ's が135 馬力のNA(自然吸気)、K's が175 馬力のターボエンジンを搭載していました。 1991 年にはマイナーチェンジで全車2000cc のSR20 型DOHC に換装され、それぞれエンジンパワーが強化されています。 ちなみに、シルビアとプラットフォームが共通の180SX も1989 (平成1)年に発売され、両車ともに大ヒットとなりました。このクルマはCA18DEエンジンを搭載する中間グレードの初期型Q's です。

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セドリックシーマ タイプIIリミテッド 1988年

セドリックシーマ タイプIIリミテッド 1988年

初代シーマ・FPY31 型は、1987(昭和62)年の第27 回東京モーターショーに出品され、翌1988(昭和63)年1 月に発売されました。3 ナンバー(普通乗用車枠)専用ボディで、国産車離れした伸びやかで気品あるスタイリングと広く快適な室内、日本初のV 型6 気筒DOHC ターボエンジンによる圧倒的な加速性能や電子制御エアサスペンションなど、それまでの日本車になかった新しい価値が大好評となり、当時、経済紙で「シーマ現象」と報道されるほどの爆発的なヒットになりました。 1989(平成1)年の物品税廃止(消費税導入)後は値ごろ感 が増して販売はさらに加速し、いわゆる「3 ナンバー車ブーム」の契機となりました。 このタイプII リミテッドは、255ps を発生する3ℓ V6・DOHC ターボエンジン「VG30DET 型」を搭載した最上級グレードです。

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ニッサンPAO キャンバストップ 1989年

ニッサンPAO キャンバストップ 1989年

Be-1(1987 年発売)に続いて登場した日産の「パイクカー」シリーズの第2 弾がこのPAO(パオ)です。 パイクカーとは、少量生産を前提とした遊び心のある「尖った(鋭い)」感覚のクルマの総称でした。 PAO は1987 年の東京モーターショーにコンセプトカーとして出展後、1989 年(平成元年)1 月に発売されましたが、 Be-1 とは異なり、3 ヶ月間予約を受けた後に全数を生産・納車するという手法が採用されました。 その結果、総生産台数は3 万台あまりに上ります。車両のベースは引き続きマーチ(K10 型)ですが、内外装ともに「冒険心」をテーマにしたレトロ調の内外装で大人気を博しました。車名は中国語の包(パオ)に由来し、モンゴルの遊牧民の「組立式家屋」を意味しています。 このクルマはキャンバストップ仕様です。

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ニッサン 180SX TYPE II 1990年

ニッサン 180SX TYPE II 1990年

美しいスタイリングを訴求したS13型シルビアとプラットフォームを共用した3ドアハッチバッククーペが180(ワンエイティ)SXです。北米・欧州市場の1989年モデルとして、それぞれ240SX/200SXの名で先行デビュー後、日本には1989年4月に登場しました。 リトラクタブルヘッドランプと強い傾斜角のノーズからウエストライン、リヤデッキへと続く滑らかで美しいスタイリングにより、Cd値(空気抵抗係数)0.3の優れた空力性能を実現しています。 「シルビアK’s」と同じ1.8ℓDOHC・16バルブ+ターボの「CA18DET型」エンジンを搭載し、新開発のマルチリンクリヤサスペンションにビスカスLSDを装備、「HICAS-II」の4輪操舵システムやABSもオプション設定され、操縦安定性・走りの楽しさ・しなやかな乗り心地を高次元でバランスしていました。 1993年にシルビアはS14へモデルチェンジする一方、180SXは基本設計を変更せずに1998年まで生産され、特に当時の若者に大きな影響を与えた1台でした。このクルマは初期型の上級仕様「TYPE II」です。

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シーマ タイプIII リミテッドL 1991年

シーマ タイプIII リミテッドL 1991年

社会現象を引き起すまでの人気を誇った初代シーマを引き継ぎ、1991年(平成3年)に2代目シーマ(FY32型)が発売されました。コンセプトは「エレガントプレステージサルーン」。特徴は大排気量4130ccV型8気筒 DOHC エンジンならではの静かで力強い加速で、市販車として世界初の油圧アクティブサスペンション、マルチAV(ナビ等)システム、カードエントリーシステム、トータルコーディネート室内照明等の最新技術も挙げられます。一方アナログ時計採用による高品質感へのこだわりも見られます。このクルマは油圧アクティブサスペンション搭載のタイプIIIリミテッド Lグレードで、フロントフェンダー上のターンシグナルレンズがノンオリジナルの個体です。フード上のゴールドオーナメントとリアスポイラーは、当時のディーラーオプションでした。

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レパード J.フェリー タイプL 1992年

レパード J.フェリー タイプL 1992年

1992(平成4)年にリリースされた3代目レパード(JPY32型)は、フランス語の「祝日」をイメージした造語を加えてレパードJ. フェリーと改名し、セドリック/グロリア(Y32型)をベースにした高級セダンとなりました。北米では「インフィニティJ30」として発売されています。とくにインテリアの質感とデザインは英国車を彷彿とさせる仕上がりで、個性的な高級車として注目を浴びました。エクステリアは、テールの下がった日本車離れしたスタイリングが海外では絶賛されましたが、日本では賛否両論を呼びました。V型6気筒の2960ccと、シーマにも搭載されていたV型8気筒4130cc 搭載エンジンよる高い動力性能など、走行性能にも定評がありました。このクルマはVG30DE型エンジンを搭載のタイプLです。

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マーチ 3ドア 1000 i・z-f 1993年

マーチ 3ドア 1000 i・z-f 1993年

日産を代表するコンパクトカー、マーチ(海外名マイクラ)の2 代目・K11 型は、軽快なイメージだった初代・K10 型の後を受けて1992(平成4)年に発売され、優しく上質で飽きのこないスタイリングが好評を博します。 モデルライフ4 ~ 5 年が普通だった日本車では異例の10 年を目指しただけに、持ち前の商品力が厳しく試されました。 3 ドア・5 ドアボディに1ℓ・1.3ℓのDOHC エンジンを搭載し、日産初となる無段変速機N・CVT も選べました。 1992(平成4)年に英国でも生産開始したK11 型マイクラは、日本車初の欧州カーオブザイヤー受賞の快挙とともに、単一型式で世界生産250 万台を超える大ヒットになります。 このクルマは、 1ℓエンジン車ではもっとも上級な「iアイ・zズィーエフ-f」グレードで、アルミホイールは当時の純正オプションが装着されています。

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スカイライン 4ドアスポーツセダン GTS25 Type X・G 1993年

スカイライン 4ドアスポーツセダン GTS25 Type X・G 1993年

8代目スカイライン・R32型は、1989(平成1)年5月に「超感覚スカイライン」のキャッチコピーとともに発売されました。この世代の最大の話題は16年ぶりの「GT-R」復活でしたが、全体にわたりスタイリングから足回りなどの機構部分に至るまで完全に刷新され、運動性能を重視して小型化したことで「スカイラインらしさへ回帰した」と多くのファンの心をつかみました。車型はピラードハードトップスタイルの4ドアセダンと2ドアクーペの2つです。 初期ラインアップには6気筒DOHC・2.6ℓツインターボエンジンを搭載するGT-Rを筆頭に2ℓの6気筒OHC/DOHC/DOHCターボ車と4気筒・1.8ℓOHC車があり、1991(平成3)年、これに新開発の6気筒・2.5ℓDOHCエンジン車「GTS25」が加わります。このクルマは1993(平成5)年の4ドアセダンGTS25 TypeX・Gです。

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ラシーン タイプII 1995年

ラシーン タイプII 1995年

1993年(平成5年)の東京モーターショーに出展され、翌1994年(平成6年)にリリースされたコンパクトRVが「ラシーン」です。ボクシーなスタイルのラシーンは、本格的なオフロード走行を目的とした4輪駆動モデルではありませんが、手軽でタフなシティランナバウトとして、2000年に生産が終了した後でも高い人気があります。エンジンは1500cc直4のGA15DE型を搭載していましたが、1997年(平成9年)のマイナーチェンジで、1800ccのSR18DE型に変更されました。また1998年(平成10年)にはスポーティ・グレードのラシーンフォルザが追加され、最高出力145馬力の2000ccエンジン、SR20DE型が搭載されました。一風変わったネーミングは「羅針盤」に由来する造語です。

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ブルーバード 2.0SSS リミテッド 1996年

ブルーバード 2.0SSS リミテッド 1996年

1996(平成8)年発売の10代目ブルーバード・U14型は、プリメーラ・P11型とプラットフォームを共用するモデルです。従来のハードトップは廃止し、端正なセダンボディのみの設定になりました。ボディはひとつながら、スポーティなSSS(スリーエス)シリーズとフォーマルなルグランシリーズがあり、それぞれ1.8ℓと2ℓのガソリンエンジンと2ℓディーゼルエンジンが設定されます。後に直噴エンジンや6速マニュアルモードつきハイパーCVTも採用され、徐々に高出力化・低排出ガス化・低燃費化を図っていきます。また、前席デュアルSRSエアバッグの標準装備や、途中からのABS全車標準化などは、ブルーバードだけでなくこの時代に特有のトレンドでした。このクルマは、最もホットな150psエンジンを搭載した「SSS(スリーエス)リミテッド」です。

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ステージア 25X 1996年

ステージア 25X 1996年

1996年10月に「最上級のワゴンクオリティと高性能な走りを実現したプレステージ・ツーリングワゴン」をコンセプトに発売されたのがステージア25Xです。直列6気筒RBエンジンを搭載し、個性的な丸型ヘッドランプとフォグランプに車格感のあるワイドグリルを採用。スポーティで高級感溢れるフロントビュー、伸びやかなラインのロングルーフとそれを受けとめるリヤピラー、リヤはワイドトレッドで安定感を持たせたデザインが人気を得ました。開放感ある室内空間を演出するため、電動ガラスツインスライドサンルーフを標準装備。木目パネルが採用され、広いラゲッジルームは高級カーペットを敷きつめ、5名乗車時で長さ1,145mmと幅1,380mm、またリヤシートを全て倒した状態で、長さ2,115mmとVDA容量1,475リッターとトップレベルの広さを確保しました。高剛性ワゴンボディとワゴン専用リヤマルチリンクサスペンションにより、高性能セダンに匹敵する静粛性を実現。ステージアは「新しいライフステージを提案する」という意を込め、「STAGE」に「Advance」の「A」が組み合わせられました。

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スカイライン GTS25t TypeM 1997年

スカイライン GTS25t TypeM 1997年

1993(平成5)年、9 代目スカイライン・R33 型が「日本の本流グランドツーリングカー」のキャッチコピーとともに発売されました。 全車が日本の小型乗用車枠(5 ナンバー)を超えて普通乗用車枠(3 ナンバー)へ大型化されたことで、居住性が大幅に向上します。 いっぽう、従来から絶賛されていたマルチリンクサスペンションは、前アッパーアームをI 型からA 型に変更、後ダンパーのストローク増などの改良が図られていました。 エンジンバリエーションは6 気筒2.5L DOHC のRB25DE 型とそのターボ版RB25DET 型を中心に、他は6 気筒2L OHC のRB20E 型のみのシンプルな構成で、プリンス時代の初代スカイラインから続いてきた4 気筒モデルはここでいったん消えます。 このクルマは後期型のGTS25t タイプM で、R33 型スカイライン開発主管を務めた渡邊衡三氏から寄贈された車両です。

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フェアレディZ 2by2 300ZXツインターボ Tバールーフ 1998年

フェアレディZ 2by2 300ZXツインターボ Tバールーフ 1998年

フェアレディZは、1969(昭和44)年の初代・S30型の発売以来、*生産累計180万台以上に達する世界有数の量産スポーツカーです。1989(平成1)年に登場した4代目・Z32型は、60°の超スラントヘッドランプ、躍動的なキャビンフォワードシルエット、高い運動性能を象徴するショートオーバーハングをもつ、Zの伝統と革新を織り交ぜたスタイリングが特徴でした。初期は2シーターと2by2(ツーバイツー)の2つのボディがあり、のちにZ初のオープンモデルの「コンバーチブル」も追加されます。 エンジンは230psの3ℓ・V6自然吸気DOHCのVG30DE型と、そのツインターボ版VG30DETT型の2種です。ツインターボの最高出力280psは、日本車の出力自主規制値としてその後10年以上変わりませんでした。このクルマは最終型にあたる1998(平成10)年の2by2ツインターボ車です。

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キューブ 4WD X 2000年

キューブ 4WD X 2000年

2代目マーチ・K11型をベースにしながらも、背の高いスクエアなワゴンボディにより、大人4人がくつろぎながら乗れる開放的な室内、ガラスハッチに代表される優れた使い勝手を実現した革新的なクルマが、初代キューブ・Z10型です。 1998(平成10)年2月に「アソブ、ハコブ、キューブ」のキャッチコピーとともに発売されると、当時の国内コンパクトカー市場に類似の商品はなく、文字通りライバル不在の大ヒットに至ります。こうして、初代キューブの累計販売台数は、次世代・Z11型がデビューする2002(平成14)年10月までの約5年間で、実に累計40万台に及びました。仲間と複数で遊ぶことが多かった1990年代後半の若者のライフスタイルをいち早くとらえた、コンセプトの勝利でした。 このクルマは2000年の4WD仕様で、アルミホイール標準装備の最上級車「X」です。

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プリメーラ P12型 2001年

プリメーラ P12型 2001年

2001年にデビューした3代目プリメーラ(P12型)は『一歩先行く大人のインテリジェントセダン』をコンセプトに「次世代の本流」が目指されたモデルです。全幅と全長が拡大され、従来の5ナンバーサイズから3ナンバーサイズのミドルクラスへと生まれ変わったモデルです。セダンのデザインは日産デザインヨーロッパ・デザインスタジオによるもので、フード、キャビン、トランクを流麗なひとつの線で結んだ「モノフォルムシルエット」は経済産業省グッドデザイン賞金賞やドイツのレッド・ドット・デザイン賞など数々のデザイン賞を受賞しました。ホイールベースを長くとり、アーチ状のキャビンで包み込むとともに、頭部周辺、膝元のスペースを十分に確保。インテリアはインストルメントパネルにITS時代に対応した優れた視認性・操作性を実現しました。新型のマルチリンクフロントサスペンションの採用、QR25DDエンジン、QR20DEエンジンおよびHYPER CVT-M6、HYPER CVT などの採用により、優れたハンドリングと高い静粛性と滑らかな走り、低燃費を実現しました。

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ステージア M35型 2001年

ステージア M35型 2001年

2001年10月に発売された2代目となる新型「ステージア」は、『デュアルシーンで余裕の走りと優れた機能を発揮するプレステージ・ツーリングワゴン』を開発コンセプトにフルモデルチェンジしました。スカイラインで採用したV6エンジン専用新FRプラットフォーム「FMパッケージ」により、「高速安定性と快適性」、「広いキャビンとラゲッジルーム」、「世界最高水準の安全性能」を実現しました。新しく開発されたVQ25DETエンジンやスノーシンクロモード付アテーサE-TSの採用により、高速走行から雪道や不整地路まで、快適で安心感のある走りを可能としました。搭載されたエンジンは直噴V型6気筒、260馬力の3L、280馬力の2.5Lターボ、215馬力の2.5Lの3ユニット。駆動方式はFRの2WDと、電子制御トルクスプリット4WDのシンクロモードに、さらにスロットル開度コントロール機能を加えたスノーシンクロモード付きアテーサE-TS 4WDの2種。ステーションワゴンとSUVのクロスオーバービークルとなる走破性を高めた4WD+2.5Lターボ搭載のAR-X FOURがラインアップされました。

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スカイラインGT-R M・スペック Nür 2002年

スカイラインGT-R M・スペック Nür 2002年

R34型スカイラインGT-Rは、1999年(平成11年)1月にデビューしました。2002年、R34型に究極と言える「M-Spec Nür」と「V-SpecII Nür」の2種類のGT-Rが、両仕様合わせて1000台限定で発売されました。「V-SpecII」はスプリントレースを意識した仕様。「M-Spec」は耐久レースを意識した仕様となっており、リヤスタビは柔らかい仕様でリップルコントロールショックアブソーバによるしなやかな足回りとなっていました。ニュルブルクリンクサーキットから命名された「Nür」は、ピストンやコンロッドの重量バランス均一化が図られたN1仕様と同様のエンジンを採用しており、ヘッドカバーは特別仕様を表しゴールドに塗装されていました。このクルマは、特別色のミレニアムジェイドに塗装された「M-Spec Nür」です。

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フェアレディZ ロードスター 2003年

フェアレディZ ロードスター 2003年

4代目となるZ32型が2000(平成12)年8月に生産終了して以来、約2年のブランクを経て2002(平成14)年に発売されたのが5代目・Z33型フェアレディZ(海外名350Z)です。先代の「コンバーチブル」に続いて、Z33型にもオープントップの「ロードスター」が2003 (平成15)年に追加されました。当時流行しつつあったメタルトップではなく伝統的なソフトトップ(幌)を採用し、電動機構によって約20秒で開閉します。 クーペと同様、搭載エンジンはV6・4バルブDOHC・3,498ccのVQ35DE型自然吸気のみでした。このクルマは海外モーターショーに出展されたショーカーで、市販車とは細部がわずかに異なります。

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セレナ C25型 2005年

セレナ C25型 2005年

2005年5月31日に「セレナ」がフルモデルチェンジしました。初代は1991年6月C22型バネットコーチのフルモデルチェンジ版「バネットセレナ」です。1994年5月にマイナーチェンジし正式車名を「日産・セレナ」に変更。1996年にラルゴと統合されフルモデルチェンジし、今回が3代目となります。「SHIFT_capacity 1BOXの可能性をシフトする」をキャッチコピーに、広い居室空間と使い勝手の良い、楽しさにあふれた装備が最大の特徴です。レジャー用具をたっぷり積み込める荷室、大開口両側スライドドアや低いステップとフロアを採用し、乗降性を向上させました。大きなサイドウインドウは開放感と視界の良さを確保し、運転のしやすさを実現。多彩なシートアレンジやリヤエンターテイメントシステム、インカーホンなどの機能も搭載されました。4輪ディスクブレーキ(フロントベンチレーテッドディスク)が全車に標準装備され、「MR20DE」エンジンとエクストロニックCVTの組み合わせにより、実用域での優れた発進加速と燃費を実現しました。

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ノート E11型 2005年

ノート E11型 2005年

これまでのコンパクトカーになかった爽快な走りと、使いやすい装備で自在に楽しめる新型コンパクトカーとして「ノート」が1月に発売されました。新型オールアルミHR15DEエンジンとエクストロニックCVTとの組み合わせにより、余裕のある快適な走りを実現するとともに、優れた燃費を達成。3,990mmの短い全長ながら、2,600mmのロングホイールベースを確保。コンパクトなボディの中にゆとりの居住空間と、「2段マルチトランク」の採用により実用性も高め、最小回転半径4.7mの小回りの良さも実現しました。フロントはストラット式、リヤにはトーションビーム式のサスペンションを採用。また、リバウンドスプリングやリップルコントロールショックアブソーバーなどの上級車仕様の装備を搭載し、優れた操縦安定性と快適な乗り心地、静粛性を実現しました。車名の由来は毎日をリズミカルに楽しくする「NOTE(音符)」と、そんな毎日を記録しておく「NOTE(ノート)」からイメージ。真新しいページを開く時のワクワクするような気持ちが込められました。

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ニッサン GT-R 2007年

ニッサン GT-R 2007年

1999年(平成11年)1月登場のR34型スカイラインGT-R以来、途絶えていた「GT-R」は、スカイラインの冠をはずし、ニッサンGT-Rとして2007年(平成19年)12月より発売されました。2001(平成13)年秋の東京モーターショーに突如「GT-Rコンセプト」が出展され、4年後の2005(平成17)年の同ショーでは、より生産型に近い「GT-R PROTO」を出展。2007(平成19)年秋に正式発表されました。R34型スカイラインGT-Rや世界の有名スポーツカーなどと同様に、ドイツ・ニュルブルクリンクサーキットで鍛え上げた、高い性能は、デビュー前から広く話題になりました。480馬力の強力な3800ccV6ツインターボエンジンに、2ペダルMTのデュアルクラッチトランスミッションを組み合わせ、「ニュル」で鍛え上げた総合性能は、世界中のスポーツカーメーカーに衝撃を与えています。このクルマは、発売時の最初期モデルです。栃木工場で同期生産でありながら、高い生産技術の元で生産されているのも話題になっています。

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フェアレディZ ロードスター Z34型 2009年

フェアレディZ ロードスター Z34型 2009年

フェアレディZとしては通算6代目のモデルとなる「フェアレディZ Z34型」が2008年に発売されました。先代のZ33型から100mm短縮したショートホイールベース化と大幅な軽量化を行い、3.7リッター「VQ37VHR」エンジンを搭載。翌2009年10月にこのロードスターと特別仕様車「40th Anniversary」が発売されました。「フェアレディZ ロードスター」は、電動開閉式ソフトトップを採用した2シーターのオープンモデルです。オールシーズンで心地よいオープンエア走行を楽しめるよう空調システム内蔵のエアコンディショニングシートでオープン時でも風の巻き込みが少ない快適な室内空間になっています。ヘッドランプからウエストへとアーチを描くダイナミックなキャラクターライン。格納したソフトトップを全て覆い隠すストレージリッドにより、オープンでの美しいスタイリングを実現しました。ソフトトップはなめらかな形状でクローズした時には流麗なシルエットでボディとの一体感を表現しました。キャンバス地のソフトトップを採用し、カラーは新色ボルドーとブラックが設定されました。特別仕様車「フェアレディZ 40th Anniversary」はクーペの最上級グレードである「Version ST」(6MT/7AT)をベースに、専用本革シート、シートバックへの記念刻印、専用アルミホイール、40周年記念エンブレム(リヤ)等が採用されました。

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ルークス VA0型 2009年

ルークス VA0型 2009年

12月に発売された「ルークス」は「スズキ・パレット」のOEM供給モデルとして誕生。最大の特長は、室内高1,365mm、室内長2,085mmという軽自動車の常識を覆す広い室内空間と、存在感のある洗練されたデザインです。「ルークス」は「Room」と「Max」を掛け合わせた造語。「ハイウィスター」はセレナ、エルグランドなど日産ミニバンのハイウェイスターシリーズの特徴を継承しています。メッキグリルにシャープな造形のヘッドランプを組み合わせ、押し出し感のあるエクステリアを演出。アクティブな家族全員が毎日楽しく使える快適で便利なクルマを目指し、乗り降りしやすく、リモコンでの開閉も可能な後席両側スライドドアや低床で開口部の広い大容量ラゲッジなど、利便性の高い装備を採用。K6A型エンジン搭載車(ターボ車を除く)は、優れた環境性能と走行性能を両立し、クラストップレベルの低燃費21.5km/Lを達成しました。

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ジューク F15型 2010年

ジューク F15型 2010年

「ジューク」はグローバル市場をターゲットに、コンパクトスポーツカーの俊敏さとSUVの力強さや安心感と魅力を一つに結合した新しいジャンルのクルマとして2010年6月9日発売されました。フェアレディZと共通イメージのブーメラン型リヤコンビランプや、大きな丸型ヘッドランプと高い位置に配したフロントコンビランプが先鋭的でスポーティさを表現。大きく張り出したフェンダーなどタフさと俊敏さを結合したデザインが特徴です。デュアルインジェクターを量産エンジンとして世界で初めて採用するなど大幅に改良した1.5リッター「HR15DE」エンジンや、副変速機付きの新世代エクストロニックCVT、高剛性サスペンションの採用などにより、優れた運動性能と高い走行安定性、快適な乗り心地を実現しています。日産初の車両情報ディスプレイ「インテリジェントコントロールディスプレイ」では、一つの操作パネルでエアコン操作と走行シーンに合わせて「ノーマル」「スポーツ」「エコ」の3つのモードで走りのキャラクターを変えるドライブモードの切り替え操作を可能としました。

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セレナ C26型 2010年

セレナ C26型 2010年

「セレナ」は1991年6月に初代が発売されて以降ロングセラーを続け、2007年から2009年まで3年連続してミニバン販売台数第一位を達成しました。2010年2月に国内累計販売台数100万台を突破し、11月29日にフルモデルチェンジしました。4代目となる新型「セレナ」は、そのDNAとも言える「室内空間の広さ」及び「使い勝手の良さ」をさらに進化させるとともに、新たにアイドリングストップシステムを搭載。2.0Lクラスの8人乗りミニバン(3列シート車)クラスNo.1の低燃費15.4 km/L(10・15モード)を実現しました。新型2.0リッター直噴「MR20DD」エンジンはシリンダー内へ燃料を直接噴射することにより、熱効率を高め、ツインVTC(可変バルブタイミングコントロール機構)化や細部にわたる低フリクション化により、低燃費と高トルクの両立を実現しました。セレナの象徴となった階段状のウエストライン(シュプールライン)や三角窓、パノラミックウインドウなどは継承。従来型と比較してすべての室内車両寸法が拡大され、広いガラス面積は5ナンバー車最大級のフロントウィンドウで、これまでにない開放感をもたらしました。

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ノート E12型 2012年

ノート E12型 2012年

2008年に発売された「ノート」が9月3日にフルモデルチェンジしました。全車1.2リッター3気筒ダウンサイジングエンジンを搭載。日産が取り組むCO2排出量削減を目的としたエンジン進化型エコカー「PURE DRIVE」の1モデル車種となります。新搭載の「HR12DDR」エンジンは、スーパーチャージャーならではの高い応答性と、エンジンの回転数に合わせて街中などの低速運転領域では過給をカットするなど、電動クラッチでオン/オフを効率よく制御することで、1.5リッターエンジン搭載車並みのキビキビとした力強い走りとガソリン登録車クラスナンバー1の低燃費25.2km/Lを両立させました。S、X、X FOURは中低速でのトルクの落ち込みが少なく、日常での使い勝手に優れた、軽量でコンパクトな「HR12DE」エンジンを採用。トランスミッションは、無段変速機に副変速機(2段変速)を組み合わせた副変速機付エクストロニックCVTが全車に採用されました。力強く躍動感のあるダイナミックなエクステリアと広く快適なインテリアに加え、コンパクトカーに初めてアラウンドビューモニターを採用することで快適性と利便性を高めています。最上級グレード「MEDALIST」は、2004年発売初代「ティーダ」の後継モデルとして、スエード調クロスと合皮のコンビシート、ピアノ調センタークラスターフィニッシャー、本革巻3本スポークステアリングなどに加え、メッキアウトサイドドアハンドルなどを採用することで内外装ともにプレミアム感を高め、クラスを超えた上質感を表現した特別塗装色 「ビートニックゴールド」が専用のボディカラーとして設定されました。

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エクストレイル T32型 2013年

エクストレイル T32型 2013年

2000年に発売されたミドルサイズSUV「エクストレイル」が2013年12月にフルモデルチェンジしました。新型「エクストレイルT32型」は2007年以来のフルモデルチェンジとなり、タフで高性能な4WDシステムの「ALL MODE 4×4-i」を継承しながら、世界初となる「アクティブライドコントロール」「アクティブエンジンブレーキ」や「コーナリングスタビリティアシスト」といった先進技術を全車に採用。乗り心地や運転のしやすさ、安全性などを大幅に向上させました。先進機能として車両前方の安全を支援するエマージェンシーブレーキや車両側方の安全を支援するBSW(後側方車両検知警報)、インテリジェントパーキングアシスト付のアラウンドビューモニターなどを搭載。フロントデザインはグリルからエンジンフードへつながる「Vモーションシェイプ」とブーメラン型のLEDヘッドランプシグネチャーとリヤランプシグネチャーが採用されました。環境性能では直噴MR20DDエンジンをはじめ、アイドリングストップ、新型エクストロニックCVT、走行抵抗の低減、軽量ボディなどの低燃費技術により、クラスNo.1の低燃費16.4km/L(社内測定値)を実現。エンジン進化型エコカー「PURE DRIVE」の1モデルとなっています。

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ティアナ L33型 2014年

ティアナ L33型 2014年

2月5日、新型「ティアナ」がフルモデルチェンジして発売されました。2003年に日産の世界戦略車として登場した大型セダン「ティアナ」は年間60万台以上が販売され、初代の「モダンリンビング」、2008年に発売された2代目の「おもてなし」のコンセプトに加え、今回の3代目は走行性能を高め、ドライビングへのこだわりが図られました。エクステリアは従来の「ティアナ」が持っている上質感を継承し、プレミアムセダンらしい存在感と上質感を強調する新色「ウォーターフォールブルー」を開発。無重力状態でのヒトの姿勢を参考に開発した「スパイナルサポート機能付シート」の採用などにより、室内の快適性をさらに向上させました。さらにサイドガラスを垂直に近い角度に立てることにより、快適性とともに魅力的なデザインを両立させています。走行性能は新開発リヤマルチリンクサスペンションを採用し、応答性と安定性を高次元で両立。アクティブトレースコントロールの採用によりコーナリング時の操舵性が向上しました。また、改良型QR25エンジンとエクストロニックCVTの協調制御によるスムーズな走り出しと力強い中低速トルクによる加速を実現。車両全体で40kgの軽量化を達成し、燃費性能の向上を両立させました。

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エクストレイル ハイブリッド T32型 2015年

エクストレイル ハイブリッド T32型 2015年

2013年にフルモデルチェンジした3代目「エクストレイル」の「エクストレイル ハイブリッド」が5月13日より発売されました。日産独自のハイブリッドシステム「インテリジェント デュアル クラッチ コントロール」は、駆動と発電を1つのモーターで行う、高効率なハイブリッドシステムです。2つあるクラッチの1つでモーターとエンジンを完全に切り離すことで、高速域でのモーター走行や高効率のエネルギー回生を可能にしました。これはハイブリッドシステムに合わせて最適化した2リッター「MR20DD」エンジンを、補機ベルトの廃止や低フリクションオイルシールの採用により基本性能を向上させ、システム全体の改善により20.6km/L(JC08モード)という低燃費を実現しました。さらに「エマージェンシーブレーキ(自動ブレーキ)」を標準装備。コンパクトなリチウムイオンバッテリーを採用することで、ハイブリッド車でありながらガソリン車と遜色ないVDA容量400L以上のラゲッジスペースを確保し、エクストレイルでは初めてスマートフォン連携機能を採用した「Nissan Connectナビゲーションシステム」が搭載されました。なお、本格的SUVとしてよりワイルドでタフなイメージを強化したグレード「エクストリーマーX」「ブラック エクストリーマーX」にも同様にハイブリッド車が設定されました。

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ノート e-POWER E12型 2016年

ノート e-POWER E12型 2016年

11月2日、「ノート」に従来の駆動方式とは一線を画す新しい電動パワートレイン「e-POWER」が追加されました。搭載しているHR12DE型エンジンにより発電し、その電力を利用してモーターの力で走行。これにより100%モーター駆動独自の力強くレスポンスの良い加速と、優れた静粛性を実現しました。通常の発進や走行時にはエンジンが停止したまま高電圧バッテリーからの電力だけで発進するため、静粛性を高めました。「e-POWER」に搭載されるエンジンは発電専用で、発電のために高効率な作動領域を保つように自動制御されており、外部電力からの充電は不要。通常のガソリンエンジン車やハイブリッド車と同様、ガソリンの給油のみで走行できます。また、新感覚の走行モード「e-POWER Drive」は、アクセルペダルの踏み戻しだけで、加速から減速までを楽に行なえる走行モードで、ブレーキペダルを踏む回数が減少。加速度の違いにより、キビキビとした走りの「Sモード」と燃費にやさしい「ECOモード」が選択できます。また今回、ノート全車種でマイナーチェンジが行われ、フロントにはVモーショングリル、ヘッドランプとバンパーをデザイン変更。リアコンビネーションランプにはブーメランシグネチャーが採用されました。「e-POWER」搭載車はVモーショングリルにブルーのラインを配し差別化され、プレミアムコロナオレンジが専用色です。

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リーフ ZE1型 2017年

リーフ ZE1型 2017年

2010年に世界初の量産型・電気自動車(EV)として発売された日産のゼロ・エミッション車「リーフ」が2017年10月2日にフルモデルチェンジして発売されました。新型「リーフ」はリチウムイオンバッテリーの容量を30kWhから40kWhへ増大したことにより、航続距離が280kmから400kmへと伸び、初代発表時の24kWh200kmと比較すると2倍になりました。さらに新たに開発されたインバーターにより最大出力110kW、最大トルク320Nmまで向上し、低速から高速までスポーツカー並みの加速性能を実現しました。高速道路単一車線での自動運転技術「プロパイロット」に加え、パーキングにおいてステアリング、アクセル、ブレーキ、シフトチェンジ、パーキングブレーキのすべてを自動で制御する「プロパイロット パーキング」を搭載。また「e-Pedal」はアクセルペダルの操作だけで発進、加速、減速、停止までをコントロール。アクセルペダルから足を離すと、回生ブレーキと通常のブレーキ双方を自動的に制御し、クルマを減速、停車させることができ、坂道においても停止を保持することができます。ゼロ・エミッションである事に加え、EVならではのパワフルな加速、そして低重心を活かしたスリークなプロポーションで軽快なハンドリングを実現しました。

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セレナe-Power C27型 2018年

セレナe-Power C27型 2018年

1991年の初代発売以来「楽しい思い出をつくり続ける“家族”のミニバン」としてロングセラーを続ける「セレナ」の「e-POWER」搭載車が3月1日に発売されました。e-POWERは搭載しているガソリンエンジンにより発電し、その電力を利用してモーターの力で走行。効率的な発電により26.2km/L(JC08 モード)の低燃費を達成しています。「セレナ」が誇る室内の広さや使い勝手の良さ、乗り心地の快適性などは継承。100%モーター駆動の力強くレスポンスの良い加速を実現するとともに、車速に応じたエンジン回転制御とボディの随所に防音対策を施すことにより、クラスを超えた高い静粛性を実現しました。フロントグリルをはじめ、エクステリア及びインテリアの随所にe-POWER の先進性を象徴するブルーアクセントが施され、専用の15inchの切削アルミホイール、ルーフサイドポイラーで空力が向上。また「e-POWER Drive」によるワンペダル感覚の運転や、高速道路の同一車線においてアクセル、ブレーキ、ステアリングのすべてを自動的に制御する「プロパイロット」が採用されるなど「ニッサン インテリジェント モビリティ」が具現化されたモデルとなりました。

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デイズ AA1型 2019年

デイズ AA1型 2019年

2013年の初代モデルの発売以来、これまでに累計で約43万台販売されてきた軽トールワゴン「デイズ」が6年ぶりにフルモデルチェンジし、3月28日に発売されました。日産自動車と三菱自動車の合弁会社NMKVのマネジメントのもと、日産が企画、開発を行いました。「新型デイズ」はフロントがVモーショングリルとなり、軽自動車で初となる「プロパイロット」を搭載。高速道路の同一車線において、アクセル、ブレーキ、ステアリングのすべてを自動的に制御することでドライバーの負担軽減を実現。さらに先進事故自動通報システムSOSコール(ヘルプネット)を軽自動車として初めて搭載しました。ハイウェイスターに搭載されたスマートシンプルハイブリッドはモーターを小型化しながらも、新たに採用したリチウムイオンバッテリーと組み合わせることで、出力を同等としながらも回生量は約2倍となり、ブレーキで失われていたエネルギーを無駄なく再利用。新開発CVTは低フリクションベルトなどの燃費向上技術や、エンジン音を大幅に低減するエンジン締結剛性を向上させる静粛性向上技術が採用されたほか、伸びのある加速感を感じられるDステップが軽自動車として初めて採り入れられました。また新開発プラットフォームの採用により、軽自動車という限られたサイズのなかで「広いキャビンスペース」と「広いラゲッジスペース」を両立。2019年度のグッドデザイン賞をはじめ、2020年次RJCカー・オブ・ザ・イヤー、2019−2020年日本カー・オブ・ザ・イヤー「スモールモビリティ部門賞」など受賞しました。

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ルークス 2020年

ルークス 2020年

2014年に発売された「デイズ ルークス」が日産自動車と三菱自動車工業の合弁会社 NMKV のマネジメントのもとモデルチェンジされ、新型「日産ルークス」として3月19日に発売されました。ルークスは2009年に初代が発売されて以来、累計(2009年11月~2020年1月/日産自動車調べ)約61万2,000台を販売。今回のモデルチェンジではデイズに軽自動車では初めて搭載された運転支援技術「プロパイロット」にミリ波レーダーが追加され、「インテリジェント エマージェンシーブレーキ」の夜間性能を向上させるなど進化。「インテリジェントFCW(前方衝突予測警報)」を軽自動車として初搭載しました。「アダプティブLEDヘッドライトシステム」や「標識検知機能」「インテリジェントDA(ふらつき警報)」「先行車発信お知らせ」など全方位で安全性が高められました。エンジンはデイズのBR06エンジンをルークスに合わせてセッティングし、高剛性化したことでエンジン音の静粛性を高め、「ゼログラビティシート」が採用されたことでロングドライブにおけるストレスの軽減が図られました。「デイズ」で好評のプラットフォームが採用され、後席の室内高は1,400mm、荷室床面の長さ675mmと大人4人がゆったりと過ごせるクラストップレベルの広い室内を実現。「ハンズフリーオートスライドドア」など、便利で使い勝手の良さが追求されたスーパーハイトワゴン軽自動車に仕上がりました。

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キックス 2020年

キックス 2020年

3月30日、電動パワートレインの「e-POWER」を搭載した新型SUV「日産キックス」が発売されました。日産初のe-POWER搭載SUVとなり、日本市場において、10年ぶりのブランニューモデルとなる新型車です。今回搭載されたe-POWERはノートやセレナからの実績に基づきながら、「キックス」専用にチューニング。最大出力を20%向上させ、95kwの高出力を実現しました。これまでの発信加速に加え、中高速域の力強さを高めたことで、高速の追い越しや合流、ワインディング走行でもスムーズに力強く加速。また独自の運転支援技術「プロパイロット」が搭載され、アクセルペダルを戻すだけで強い減速力が発生する「e-POWER DRIVE」を採用。ワンペダル感覚での運転を可能にすることでドライバーの負担を軽減しました。デザインはダブルモーションVグリルとフローティングルーフで力強さとスタイリッシュさを表現。オールLEDのヘッド&リヤコンビーションランプが先進的でシャープな印象を与えています。インテリアはカテゴリートップクラスのフロントウィンドウ見開き角と低いウエストラインにより、運転席は開放感のある視界を確保。後席はニールーム600mm、ヘッドルーム85mm、ラゲッジルームは423Lと、セグメントトップクラスの広さを実現しました。

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アリア 2020年

アリア 2020年

日産の新たなフラッグシップモデルとなる初のクロスオーバーEV車「日産・アリア」が7月15日発表されました。「アリア」は「人々の生活を豊かに」という日産のビジョンを体現しており、日産のコアとなる強みに集中する「Nissan NEXT」を推進する最新の技術とデザインが採用されました。日本のDNAをシンプルでありながら力強い美しさへと昇華させ、進化した日本の伝統美という新しいデザインランゲージ「タイムレス ジャパニーズ フューチャリズム」が提案されました。2WDとe-4ORCE(4WD)の2つの駆動方式を搭載しています。NISSAN GT-RのアテーサE-TS(電子制御トルクスプリット4WD)で培った技術e-4ORCEは前輪と後輪それぞれにモーターを持ち、素早いレスポンスと滑らかで力強い加速、減速時でも揺れを抑えた快適な乗り心地、路面や天候を問わない走行安定性を実現しました。さらに先進運転技術「プロパイロット2.0」は高速道路上で同一車線内でのハンズオフを可能にしました。走行中にアクセルペダルを離すと減速力が発生することでブレーキペダルへの踏みかえが大幅に減少したe-Pedalは、クリープ機能を新たに搭載し、操作性が向上しています。B6(2WD)は一充電走行距離(国土交通省審査値)470km(WLTCモード)を達成。自宅充電は200V専用電源、6kW普通充電器、V2Hの3タイプから選べ、充電スタンドなどの90kW急速充電器(200A)を使用すれば約45分で80%まで充電可能です。2021年6月4日に発表された日本専用限定車「日産アリア limited」は、受付開始から10日間で約4,000台の予約注文が殺到したことで話題を集めました。

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ノート 2020年

ノート 2020年

12月23日に3代目となる新型「ノート」が発売されました。2005年に初代が発売された「ノート」は15年間で累計146万台を販売(2020年10月末段階・日産調べ)。2012年9月に2代目、2016年11月に新しい電動パワートレインe-POWER搭載モデルを発売。2018年の登録販売台数N0.1を獲得し、2017年から2019年まで3年連続で国内コンパクトカー販売台数1位に輝き、日産を代表するモデルに成長しました。2020年新たに発表された新型ノートは第2世代のe-POWERを初搭載。トルクは10%、出力が6%向上し、インバーターが第一世代より40%小型化、30%軽量化されたことにより。加速性能だけではなく燃費向上も図られました。さらにコンパクトカーとして初搭載となった運転支援技術「プロパイロット」にナビリンク機能が追加され、「360°セーフティサポート」などの先進安全技術も充実しました。デザインは7月に発表された「「アリア」に導入された日産の新たなデザインランゲージ「タイムレス ジャパニーズ フューチャリズム」を採用。フロントグリルと一体化した薄型のヘッドランプ、新型のVモーションクロームのフロントグリルには日本の伝統工芸である組子からインスパイアされたパターンがあしらわれています。さらに前後輪それぞれに2つの強力なモーターを備えた電動4WD車が12月に発表されました。2021年度グッドデザイン賞、2020年次「RJCカーオブザイヤー」、また日産としては「リーフ」以来10年ぶりとなる「2021-2022日本カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。

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フェアレディZ 2021年

フェアレディZ 2021年

8月に米国ニューヨークで新型「Z」(日本名「フェアレディZ」)が発表されました。初代モデルが1968年に発売されて以来、これまで世界中で180万台以上が販売された人気スポーツカー「フェアレディZ」の7代目モデルとなります。日本国内では2022年1月14日に特別仕様車「Proto Spec」とともに発表。先代6代目は2008年に発表され、今回が14年ぶりのモデルチェンジとなります。初代「S30型」のシルエットや前後の象徴的なモチーフを受け継ぎ、四角いフロントグリルなど歴代Zのオマージュを感じさせるデザインで、ボディサイズ(全長×全幅×全高)は4,380×1,845×1,315mmと先代に比べると全長は110mm伸び、全幅と全高は同じ。ホイールベースも2,550mmとほぼ同様。最高出力298kW(405PS)/6,400rpm、最大トルク:475N・m(48.4kgf・m/1,600-5,600rpm)、新開発3リッターV6ツインターボエンジンを搭載し、トランスミッションは6速MTと9速ATが用意されました。特別仕様車「Proto Spec」は2022年6月下旬頃に240台限定で発売予定。イカズチイエローとスーパーブラックの2トーンのボディカラーのエクステリアには、専用カラーのレイズ製19インチアルミ鍛造ホイール(チタニウムゴールド)や、4輪アルミキャリパー対向ピストンブレーキ(イエロー)などを装備。インテリアには、本革・スエード調ファブリックコンビシート(イエローセンターストライプ、イエローステッチ、イエローアクセントライン)などが採用され、インストパネル、ドアトリムクロス、MTシフトノブブーツ、ニーパッドなどに専用カラーステッチが施されています。

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あの頃の主な出来事

1960-1964

写真:崇正 魚谷 - stock.adobe.com

国民皆保険・皆年金制度実施

1958年に新しい「国民健康保険法」が制定され、戦後の日本の社会保障の大きな課題となっていた国民皆保険が1961年4月にすべての市区町村が実施された。同時に国民皆年金も達成された。1955年頃まで国民の3割程度が無保険だったとされ、同制度の達成が日本の経済成長を支えた。

カラーテレビ本放送始まる

日本でTVの本放送が開始された1953年から7年目にカラーTVの本放送がスタートした。当時はまだ白黒TV、冷蔵庫、洗濯機が耐久消費財の”3種の神器”と呼ばれており、高額品だったカラーTVが実際に売れ出すのは1964年ころから。カラーTVの普及率が白黒TVを超えたのは1974年とその10年後。

日本人が小型ヨットで94日かけて太平洋を初横断

23歳の青年が日本人として初めて小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断成功。1962年5月12日に兵庫県西宮を出港し、8月12日サンフランシスコに入港。航海日数は94日で当時のサンフランシスコ市長が名誉市民としてパスポート無しで受け入れ、同艇は同地の米国立海洋博物館で現在も保存・公開されている。

ボウリングの流行が始まる

この頃からボウリングの機械化が進み始める。それまでは、ピンボーイと呼ばれる人が倒れたピンをもとどおりにするという人力に頼ったものだったが、自動化により全国各地にボウリング場が次々にオープン。TVでもボーリング番組が放映され、ブームが加熱していく。

東京五輪開催。海外渡航自由化

1964年4月1日、日本人の海外観光渡航が自由化された。渡航費以外に一人500ドルまで持ち出し可能となり、団体観光旅行が増加。旅行業者のパッケージツアーはハワイ・アメリカ、台湾・香港・マカオ周遊、ヨーロッパ周遊などが用意された。また10月には新幹線が開業し、東京五輪開催ともにホテルの開業も相次いだ。

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あの頃の主な出来事

1965-1969

写真:日産ヘリテージ

自動車保有1000万台突破、テレビ受信2000万台突破、新三種の神器3C時代到来

1963年度以来毎年100万台~150万台の増加を続けていた自動車保有台数が1967年度に200万台以上増加、特に個人需要層の自家用車が急増し、総保有台数として1,000万台を突破した。また1963年に1500万件だったテレビ受信契約件数が1967年には2000万件を突破。カラーテレビ・車(CAR)・クーラーの耐久消費財がそれぞれの頭文字を取った3Cとして新三種の神器と呼ばれた。

西表島でイリオモテヤマネコが発見される

1965年5月に沖縄の西表島で地元の中学生が怪我をしたヤマネコを発見。中学教諭が毛皮と頭蓋骨を保管していたものを動物学者が調査。野生種のヤマネコであることが学会で認められた。その後1968年に2頭が発見され、動物学者に飼われた後に国立科学博物館に移された。現在の生息数は約100頭と推測され、環境省第4次レッドリストに指定されている。

1966年日本の総人口が1億人超える

1960年代に入って高度成長を背景に出生率が安定し1967 年に日本の総人口は1億人を突破した((法務省の住民登録集計で1億55万4894人/平成 27 年版 厚生労働白書)。一方、東京都区部の人口は1966年の889万人をピークに減少し、1996 年を境に再び増加に転じた。

全国の電話加入数1,000万台突破

1968年4月に全国の電話加入数が1,000万台突破し、世界第2位となり。この年GNPでもアメリカに次いで世界第2位となった。TVが普及し、通信メディアが大きく変化したことで世界の情報もあらゆるジャンルの出来事が行き交う時代へ加速。日本の作家がノーベル文学賞を初受賞した。

人類初の月面着陸に成功

1969年7月16日、アメリカの宇宙船がフロリダ州の宇宙センターから打ち上げられた。7月20日、人類が初めて月に降り立ち、約21時間36分月面に滞在。7月24日、北太平洋ウエーク島東方2,660キロに着水。月の岩石と土を地球に持ち帰ることに成功した。地球に帰還した司令船はアメリカの各州で巡回展示された。

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あの頃の主な出来事

1970-1974

画像:Liliya - stock.adobe.com

中国からパンダが初来日

1972年9月に行われた日本と中国の国交正常化を記念し、10月に北京で飼育されていた2頭のジャイアントパンダがそのシンボルとして中国から日本に贈られた。11月5日に東京で一般公開され、初日には6万人が来園。最盛期には毎日1万5000人が訪れ、2時間待ちの行列ができた。

大阪で万博開催

1970年3月15日、大阪・千里丘陵で開幕した日本万国博覧会(大阪万博)は9月13日までの183日間で計6,421万8,770人が来場した。会場面積は330ha。1日の最高入場者は83万6千人で平均入場者数35万人を記録した。入場料は大人(23歳以上)800円、青年(15~22歳)600円、小人(4~14歳)400円。「人類の進歩と調和」をテーマに国内外合わせて116のパビリオンが参加。同博覧会のお祭り広場にそびえる「太陽の塔」は日本高度成長期のシンボルとして人々に記憶され、現在も同地に存続している。

第2次ベビーブーム到来

第1次ベビーブーム(1947~49年)に誕生した「団塊の世代」による第2次ベビーブームが1971年に到来。赤ちゃんの出生数は1973年をピークに1974年まで毎年200万人を超えた。日本ではこの世代は団塊ジュニアと呼ばれることが多い。アメリカで「ベビーブーマー」は1946~64年生まれを指し、世界人口の約17%をこの世代が占めている。

ゴルフブーム過熱

祝日振替法が施行され、週休二日制が広まり、スポーツレジャーへの意識が高まった。日本人スタープレーヤーたちの活躍もあってゴルフ熱が高まり。ゴルフ場の開発ラッシュが起きる。1973年から5年間に653コースが開場。それまでの669コースから1975年には1000コースを突破。5年間で約2倍と急増した。

米国式コンビニエンス・ストアが初めて開店

米国で1940年代に登場した週7日、毎日16時間営業する「トーテムストア」と呼ばれた日用品の小売販売チェーン(コンビニエンスストア)のフランチャイズが日本初上陸。東京都江東区豊洲に1号店をオープンした。チェーンストアに代表される大型店の出店を規制することで、中小店舗を保護することを目的に前年10月に施行された大規模小売店舗法に対応した小規模小売店の端緒だった。

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あの頃の主な出来事

1975-1979

写真:Andrey Armyagov - stock.adobe.com

カラオケブーム到来

1970年代前半に開発されたカラオケ機器がこの年から一般の社交場にも導入されるようになり、スナック、バーなどでカラオケがブームになった。歌謡曲ヒットチャートで女性アイドルユニットが大活躍し、子供はTVの前で大人はスナックやバーで振り付けを真似て踊ることが社会現象に。演歌からも新しいスターが次々に誕生した。当時まだビデオモニターはなく、8トラと呼ばれた大型カセットテープシステム、歌本と呼ばれる歌詞の載った本を見ながら歌った。

最後のSL運転

1975年12月14日、国鉄最後の蒸気機関車(SL)旅客列車が室蘭~岩見沢間でさよなら運転を行った。日本の鉄道開通以来103年活躍してきた蒸気機関車の最後をけん引したのはC57形式135号機。人気女性歌手などが乗車したこともあり、前日から室蘭駅など沿線には約3万人が押しよせた。ちなみに東京都内近郊でのSL旅客列車は1969年8月20日両国発勝浦行(房総東線・現:外房線)だった。

戦後生まれが総人口の半数越える

1945年8月15日の終戦後に生まれた人口が5700万人となり、総人口1億1309万人の50.5%と初めて半数を超えた。総務省の人口推計(2019年10月1日)によると戦後生まれの人口は1億655万人で、全体の84.5%を占める。一方、戦前生まれは1962万人。

ジョギングブーム

70年代前半から愛好者が増加していたジョギングは“肥満”が社会病化していた米国で新しいライフスタイルとして注目され、この年から日本でも本格的なブームを迎える。ランニング理論に関するベストセラー本が生まれ、マラソンのスター選手も誕生。さまざまなジョギングシューズが発売され、ランニングだけではなくタウンシューズとしてファッションアイテムになった。

省エネが話題に

1973年に次いで第二次オイルショックが起きたこの年に「省エネ法」(「エネルギーの使用の合理化等に関する法律」)が制定された。産業を含む各分野で効率的なエネルギー使用や、合理化が推進された。中央官庁ではノーネクタイ・ノー上着運動が推奨され、半袖スーツが提案され「省エネルック」が話題となった。

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あの頃の主な出来事

1980-1984

写真:goro20 - stock.adobe.com

自動車生産台数1100万台で米国を抜き世界一に

1980年12月に日本の自動車生産台数が1100万台を突破し、米国を抜いて世界一になった。日本の高度成長を支えた自動車輸出は1970年に500万台を達成。その後、国内工場からの輸出が毎年増加し1980年に輸出が国内向け生産を上回った。

貸しレコード店大流行

ポータブル・カセットプレーヤーが普及したことで、レコードを録音して聴くこと一般化し、貸しレコード店が学生街などを中心に次々にオープンした。1981年6月に約500店舗だったが、同年12月には約930店、1983年頃には約1700店舗まで広まった(日本レコード協会調べ)。

テレホンカード使用が開始

1982年12月に日本電信電話公社が発行した公衆電話で使用できる磁気プリペイドカード。カード式公衆電話1号機は東京・数寄屋橋にこの年の12月23日に設置された。携帯電話が普及する1990年代には使用機会が減少したが、2021年6月までは新幹線の一部車両では使用できる公衆電話が設置されていた。

中国自動車道全線開通

1983年3月24日、中国自動車道の千代田IC~鹿野IC間101.7kmが開通し、中国道の全線、吹田JCT~下関IC間の全長540.1kmが開通した。これは高速道路では東北道の679.5kmに次ぐ長さとなる。中国地方の中央を貫く西日本の大動脈が築かれ。大阪~下関間を約7時間で移動できるようになった。これにより東京から熊本県八代市までが高速道路で結ばれた。

日本が世界一の長寿国に

日本人の平均寿命が男72.69歳,女77.95歳となり世界一の長寿国となった。翌85年には女性の平均寿命は80歳を超え、1985年から2010年まで26年間連続で世界第1位。WHOによる2021年版の世界保健統計(World Health Statistics)でも日本人の平均寿命は84.3歳と世界一位。 2位はスイスで83.4歳。男女別では女性が86.9歳で1位、男性が81.5歳でスイスに次いで2位となっている。(詳細な数値は発表団体、省庁によって多少の誤差があります)

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あの頃の主な出来事

1985-1989

画像:efuroku - stock.adobe.com

平成時代始まる

1989年(昭和64年)1月8日、新元号「平成」に切り替わった。前年秋より体調を崩されていた昭和天皇が1月7日に崩御され改元。皇太子であった明仁親王が第125代天皇に即位した。新元号は当時の官房長官が「平成」と書かれた書の額を掲げ、その姿が生中継され話題を集めた。同年の東京株式市場の最終取引日の株価は史上最高の38,957円を記録した。

ハレー彗星76年ぶりに地球に接近

地球から肉眼で見える唯一の周期彗星のハレー彗星が、76年ぶりに地球に接近することが話題となりブームとなった。1985年1月と8月には日本初の彗星探査機の「さきがけ」と「すいせい」が打ち上げられ、翌1986年にハレー彗星の国際協力探査に参加し、彗星付近の太陽風の観測や、中心核の紫外線写真の撮影などが行われた。1986年2月の最接近時には彗星が南下しており日本からの観測に適した状況ではなかった。

上野動物園でパンダ2世誕生

1986年6月に上野動物園で人工授精によってジャイアントパンダの赤ちゃんが誕生した。前年に初の人工授精による1例目の“江戸っ子パンダ”が誕生していたが、母親の下敷きによって43時間で死亡。二例目となった今回のメスは順調に成長。12月の公開開始後1ヶ月で入園者は1000年の2倍となった。また1988年に3例目のオスが生まれパンダ舎は拡張された。

国鉄が分割・民営化

1987年4月1日、国鉄が115年の歴史に幕を閉じて分割・民営化され、北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物のJR7社が発足。1985年に民営化されたNTT、JTに続く政府主導の行政改革の柱となった。

世界最長の青函トンネルが開通

1988年3月13日、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ全長53.85km(海底部23.30 km)、世界最長(開通当時)の交通機関海底トンネルの「青函トンネル」が開通した。交通機関用トンネルとしては世界4位の長さであり、世界一はスイスの「ゴッタルドベーストンネル」で57km。海底部の総距離では英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)が37.9kmで世界一の長さを持つ。青函トンネルは海底トンネルおよび狭軌のトンネルとしては世界一の長さと深さを持つ交通機関用トンネル。

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あの頃の主な出来事

1990-1994

画像:Gorodenkoff - stock.adobe.com

日本人の宇宙飛行士が米スペースシャトルで宇宙へ

1992年9月12日、日本人科学者が宇宙飛行士として初めて航空宇宙局(NASA)のスペースシャトルで宇宙に飛び立った。スペースシャトルでは日米が開発した実験装置を使用し、宇宙空間の特性を利用した実験を軌道上で実施、日本人の子どもたちに向けて宇宙から無重力の状態を生放送で伝えた。

景気拡大、「岩戸」を抜いて史上2位に

日本の経済史上で1958年7月から1961年12月まで42か月間続いた岩戸景気を抜いて1990年6月、史上第2位の景気拡大となった。この好景気はバブル景気と名付けられ、1986年2月から1991年2月までの51か月間続いた。当時の第1位は1965年11月から1970年7月まで57か月間続いたいざなぎ景気で、その後2002年2月から2008年2月までの73ヶ月間続いたいざなみ景気が1位となった。

ECが「欧州連合」創設で合意

1991年12月に欧州共同体(EC)の首脳会議において欧州共同体(EU)創設のための「マーストリヒト条約の合意」に至った。同条約は通貨統合、外交・安全保障における欧州一体化、司法・内務協力、市民の自由な移動などを規定したもの。欧州連合(EC)は1964年にベルギー、ドイツ連邦共和国、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダ6カ国で発足。73年にデンマーク、アイルランド、英国、81年にギリシア、83年にスペイン、ポルトガルが加盟。1986年に単一欧州議定書がこの12カ国により調印されていた。

皇太子、雅子さまご結婚

1993年6月9日、皇太子さま(現・天皇陛下)と同妃雅子さま(現・皇后さま)の結婚の儀が皇居・賢所で執り行われた。お二人が初めて出会われたのは初めて出会われたのは1986年10月、東宮御所で催されたスペイン王女の歓迎パーティーで、92年に再開。その年の10月にプロポーズされ93年1月にご婚約内定のニュースが流れた。結婚の儀には当時の首相及び皇族、親族、各界代表ら800人余りが参列。午後には皇居から住まいの東宮仮御所までの4.9kmをオープンカーでパレード。沿道には19万人が詰めかけた。

税制改革法成立

1994年6月に税制調査会で、活力ある福祉社会の実現を目指す観点から所得税負担の軽減と消費課税の充実を図るといった税制改革についての答申が出されたことを受け、税制の抜本的な見直しが行われた。同年11月に「所得税法及び消費税法の一部を改正する法律」及び「地方税法等の一部を改正する法律」が国会で可決成立。1989年に3%で導入された消費税は、1997年に5%へと引き上げられた。

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あの頃の主な出来事

1995-1999

写真:mtsaride - stock.adobe.com

日本人投手が米大リーグで活躍、新人王に

トルネード投法と呼ばれた独自のフォームから人気を集めた日本人投手が米西海岸のメジャー球団とマイナー契約を結び、日本人で二人目となる米メジャーリーガーとしてデビューした。開幕から4試合で50奪三振を記録するなど大活躍。この年のオールスターゲームにも選出された。最多奪三振タイトルを獲得。チームとしては7年ぶりの地区優勝に貢献し、その年の新人賞を獲得した。

国連、核実験全面禁止条約を採択

1996年9月10日、宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発、その他の核爆発を禁止した「包括的核実験禁止条約」(略称:CTBT)が国連総会によって採択。日本は9月24日に署名、翌1997年7月8日に批准した。条約の発効に批准が必要な核技術保有44カ国のうち、中国、アメリカ、北朝鮮、エジプト、インド、イラン、イスラエル、パキスタンの8カ国がまだ批准していない。内。インド、北朝鮮、パキスタンは未署名であり、2022年2月の段階で未発効。

サッカーW杯初の本大会出場へ

1997年11月16日、翌1998年に開催されるサッカーW杯フランス大会への出場が決まった。この日、マレーシアで行われたアジア第3代表決定戦のイラン戦で日本が3-2で勝ち、悲願の初出場を決めた。2-2で迎えた延長後半にVゴールでイランを下し、この日の試合を「ジョホールバルの歓喜」「ジョホールバルの奇跡」などと呼ばれている。同代表チームは10月に成績不振から代表監督が解任され、当時のコーチが新監督に昇格しての出場獲得だった。

ユーロ参加11カ国決定

欧州連合(EU)の基本条約に規定された経済通貨同盟(EMU)の参加11カ国(ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、アイルランド、スペイン、ポルトガル、オーストリア、フィンランド)が5月に決定。単一通貨として参加国通貨の換算レートが固定され、欧州中央銀行(ECB)によってユーロが導入国の通貨に取って替わりました。実際に紙幣、硬貨の流通は2002年1月から開始された。

日産と仏ルノーが資本提携、自動車業界の国際的再編進む

1999年3月27日、日産自動車は仏ルノーとの資本提携に調印。両社は利益ある成長と共通利益の追求という共通戦略を掲げ、6月に双方の業務領域をカバーする共同プロジェクトを設立した。自動車業界は90年代後半から新動力源開発など技術開発や新興市場への参入において国際的な再編が進みつつあり、日産とルノーの資本提携の翌年以降、日米欧主要自動車メーカー間の資本参加などこれまで以上に結合が強まった。

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あの頃の主な出来事

2000-2004

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地上デジタルテレビ放送が東京、大阪、名古屋で開始

2003年12月1日、東京、大阪、名古屋の3大都市圏で地上デジタルテレビ放送の本放送が開始された。総務省は2001年6月の電波法改正の成立を経て、地上放送のデジタル化及びアナログ終了期限を2011年7月24日に決定しており、2000年12月にBSデジタル放送を開始。この日、NHK3局と民放16局の地上デジタル放送がスタートした。

シドニー五輪で日本女性陣が大活躍

シドニー五輪で日本人女性選手が大活躍。日本初の金メダルを女子柔道で獲得して国中が沸き、マラソンでも女子陸上初となる金メダルを獲得。ソフトボール、競泳、シンクロナイズドスイミング、柔道で銀メダル、銅はテコンドーで初のメダルを獲得するなどすべてを女性選手が獲得した。同大会での日本のメダル数(女子)は金5(2)、銀8(6)、銅5(5)。

メジャーリーグ初の日本人野手、MVPと新人王受賞

日本人初となる野手のメジャーリーガーが誕生。2001年のMVPと新人王を獲得し、チームをリーグの地区優勝に導いた。メジャーでのルーキーシーズンとなったこの年の成績は157試合に出場し242安打をマークし、打率.350、8本塁打、69打点、56盗塁。MVP、新人王以外に首位打者、盗塁王、ゴールドグラブ賞と数々のタイトルを獲得し、全米に衝撃を与えた。

日韓共催のサッカーW杯で日本、初のベスト16

2002年5月31日から6月30日までアジアで初めてサッカーW杯が日本と韓国の共同で開催された。日韓両国20都市で計60試合が開催された。日本は初戦でベルギーと2対2で引き分けた後、ロシアに1対0、チュニジアにも2対0で勝ち、決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント初戦でトルコに0対1で敗れ、ベスト16。決勝は横浜国際総合競技場で行われ、ブラジルがドイツを破って優勝した。

アテネ五輪で金メダル史上最多タイの16個、総数は史上最多

21世紀最初の夏季五輪大会が2004年8月にギリシアの首都アテネで開催された。日本は1964年東京五輪とタイの金メダル16個を獲得。米国、中国、ロシア、オーストラリアに次ぐ世界第5位、 全競技で37個の世界第6位と史上最多となるメダル数を獲得した。柔道では男子60kg級で前人未到の3大会連続、女子48kg級で連覇となる金メダルを獲得するなど男子が金3個、女子が金6個と大活躍。女子マラソンもシドニー大会に続いて金メダルを獲得。競泳男子平泳ぎで100m、200mと2冠達成など歴史的なスター選手が輩出された大会。

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あの頃の主な出来事

2005-2009

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冥王星、太陽系惑星から降格

2006年8月24日チェコのプラハで行われていた国際天文学連合(IAU)において、冥王星が「惑星」ではなく「準惑星」と定義され、太陽系の惑星は、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8個となる新しい定義が採択された。冥王星は1930年にアメリカ人よって発見された9番目となる最も新しい惑星とされてきた。しかし直径2370kmと月よりも小さな天体であることがその後の研究によって明らかになり、同等またはそれ以上の天体は他にも発見されているため惑星の定義から外され、準惑星の扱いとなった。

愛知万博開催、目標上回る入場者数

2005年3月25日から9月25日までの間、名古屋東部丘陵(長久手町・豊田市および瀬戸市)で万国博覧会が開催された。愛称は「愛・地球博」。テーマは「自然の叡智」。日本を含め121カ国と国連本部及び33の国連関連機関を含む4つの国際機関が参加した。開催にあたり「マンモス発掘・展示プロジェクト」としてロシア北部の永久凍土から発掘された冷凍マンモスが世界で初めて展示された。このマンモスの人気もあって会期中約2200万人が訪れ、目標の1500万人を大きく上回った。

郵政民営化スタート

2005年10月に成立した郵政民営化法に基づき2007年10月1日に日本郵政グループが発足。持ち株会社の日本郵政株式会社と4つの事業会社に分かれ民営化された。4つの事業会社は郵便窓口業務や郵便局を運営する郵便局株式会社と郵便事業株式会社,銀行業務を行う株式会社ゆうちょ銀行,保険業務を行う株式会社かんぽ生命保険。また民営化以前の貯金・保険業務を引き継ぐ郵便貯金・簡易生命保険管理機構(独立行政法人)が設立された。

日本人4人にノーベル賞

2008年のノーベル賞は物理学賞と化学賞あわせて日本人4人が同時受賞した。日本人の受賞は6年ぶりとなり、物理学賞は素粒子の理論研究で3名が同時受賞。この3名の研究は素粒子物理学の基礎である「標準理論」の柱に発展した。化学賞は緑色蛍光タンパク質の発見と開発により2人の米国人研究者との共同受賞となった。今回受賞した4名の内2名は約50年前に渡米、米国での研究成果が認められた。また内1名は米国籍を取得していた。

日本人メジャーリーガーがワールドシリーズMVP

米メジャーリーグのワールドシリーズでヤンキースが優勝。指名打者としてフル出場した日本人選手が日本人史上初となるワールドシリーズMVP を獲得した。メジャーデビューして7年目、ラストシーズンとなった今シリーズは6戦で打率6割1分5厘、3本塁打、8打点の圧倒的な成績。特に3勝2敗で迎えた第6戦は指名打者でスタメン入りし、2回にシリーズ2本目となる先制の2ラン本塁打。3回に2点タイムリー、5回にも2点タイムリー二塁打を放ち、ワールドシリーズタイ記録となる1試合6打点の活躍ぶりをみせた。

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あの頃の主な出来事

2010-2014

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2020年夏季五輪・パラ五輪、東京開催決定

2013年9月7日、56年ぶり2度目となる東京での2020年夏季五輪開催が、IOC総会で決定した。1972年札幌、1998年長野の冬季大会を含めると4回目の日本での五輪開催となる。ブエノスアイレスで開催されていた最終選考会にはイスタンブール(トルコ)、マドリード(スペイン)が立候補していたが、最終投票で東京に決定した。2度目の開催はアジア初。同総会でのプレゼンテーションスピーチの際に使用された日本流の歓迎の精神を示した“おもてなし”は流行語にもなった。(実際の開催はコロナ禍の影響により2021年となった)

高速道路一部無料化社会実験始まる

高速道路無料化社会実験が2010年6月28日から翌2011年3月末までの予定で、全国の高速道路の約2割、50区間で開始された。ETC車載器の有無や車種を問わずすべてが無料とされた。割引率の順次拡大などの社会実験を実施し、その影響を確認しながら、将来的に高速道路を原則無料化して地域経済を活性化させることが目的とされたが、2011年3月の東日本大震災のため2011年6月20日で社会実験は一時凍結された。

地デジ・BSデジタルへ移行

2011年7月に東北3県(岩手・宮城・福島)を除く44都道府県においてアナログ放送が終了し、地上テレビ放送はデジタル放送に移行した(翌年3月末に東北3県においても移行が完了)。2001年6月の電波法改正の成立を受けてのもので、これによって60年近く続いたアナログ放送の時代が幕を閉じた。今回の地デジ移行において政府はデジタル対応のテレビに買い替えを促すため、省エネ家電の購入で得たポイントを商品券などに交換できるエコポイントが導入された。

日本各地で金環日食を観測

2012年5月21日早朝、日本列島各地において金環日食が観測された。日本での金環日食は1987年の沖縄以来25年ぶりで国内の観測範囲は、福島県から鹿児島県までの28都府県。日本でこれほど広範囲に観測されるのは932年ぶりのことで、東京で観測されたのは173年ぶりとなり、東京では6時すぎから太陽の一部が欠け始め、金環日食は午前7時32分頃から約5分間が続き、ネットには多くの写真や動画がアップされた。

フィギュアスケート男子で日本人初の金メダル

2014年2月15日、ロシアで行われていたソチ五輪の男子フィギュアスケートで日本人初となる金メダルを19歳の選手が獲得した。ショートプログラムで歴代最高となる100点超えを記録。フリー演技では冒頭でのジャンプを失敗、不本意な演技に終わったものの逃げ切り、アジア史上初となる金メダルを獲得。日本の男子フィギュアスケートにおけるレベル向上を世界中にアピールした。同五輪での日本の金メダルは同種目だけだった。

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あの頃の主な出来事

2015-2019

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史上最年少プロ棋士が公式戦29連勝

史上最年少でプロ入りした14歳の中学生棋士が2017年6月26日、竜王戦決勝トーナメント1回戦を勝ち、公式戦連勝記録を29に伸ばして歴代単独トップとなった。昨年12月のデビュー以来無敗、30年ぶりの新記録樹立。7月に行われた同トーナメント2回戦で敗れ、連勝記録は29でストップしたが、公式関連グッズが短時間で完売。アニメや映画、アプリなどの将棋コンテンツが人気となり、将棋チャンネルの開局など将棋ブーム旋風の立役者となった。

ラグビーW杯で歴史的勝利

2015年9月19日、ラグビーのW杯イングランド大会で、日本代表が初戦で過去2度の優勝を誇る南アフリカから後半ロスタイムに逆転トライを奪い、24年ぶりの歴史的な勝利を掴んだ。試合終了後のインタビューでオーストラリア人日本代表ヘッドコーチは3万人の観客を前に「いま、歴史は変わった」と称し、英国メディアは「ラグビー史上、スポーツ史上最大の番狂わせ」と報じた。同大会で日本はサモアと米国にも勝利したが、決勝トーナメント進出は果たせなかった。

リオ五輪、過去最多となる41メダル獲得

南米初の開催となったブラジル・リオデジャネイロ五輪で、日本は前回のロンドン五輪を上回り過去最高となる41個のメダルを獲得した。特にお家芸の柔道で男子は全階級でメダルを獲得。女子レスリングでは4階級で金メダル1階級で銀メダルを獲得し、前回に続いて強さを示した。また体操男子が団体総合と個人総合で金。バドミントンで女子ダブルスが初の金、水泳・競泳ではリレーを含め金2、銀2、銅3に輝いた。シンクロナイズドスイミングが団体、デュエットで、卓球女子団体が銅メダルを獲得するなどこの大会でも女子選手の活躍が目立った。閉会式では次回開催の東京が紹介され、当時の日本首相がゲームキャラクターに扮して登場したことが話題となった。

テニス全米オープンで日本人女子選手が初優勝

2018年9月8日、テニスの全米オープン女子シングルス決勝で日本人選手が元世界一位選手を6-2。6-4のストレートで破り初優勝した。 日本人選手が四大大会のシングルスを制したのは史上初となり日本中が沸いた。試合は全米オープン6回を含め、四大大会で23回優勝している元女王が、主審と言い争うなどして荒れた展開となったが、終始冷静に対応した20歳が勝利を手にした。日本人の母とハイチ人の父を持つ彼女は幼少期に大阪でテニスを始め、14歳でアメリカに移住。当時日米両方の国籍を保有していたが、その後日本国籍を取得した。

新元号「令和」がスタート

2019年4月30日に平成31年が幕を閉じ、5月1日に今上天皇が即位され「令和元年」がはじまった。新元号「令和」は4月1日に発表され、その出典は、日本最古の和歌集「万葉集」の三十二首「梅花の歌(うめのはなのうた)」序文の中の“初春令月 気淑風和”からの引用。当時の首相から「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味を込めたという談話を発表した。外務省からは各国在外公館に対して「Beautiful Harmony(美しい調和)」との英訳で統一された。

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あの頃の主な出来事

2020-2024

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“鬼”が主人公のアニメが大ヒット

マンガ週刊誌の連載からTVアニメ化された作品が空前のヒット。2020年5月に4年間に及んだ雑誌連載を終えたが、10月に公開された同作品の劇場アニメは日本の歴代史上最高の400億円を越える興行収入となり、この年公開された映画でも最高の興行収入となった。12月に発売された最終巻を求め発売日には書店に行列ができ、累計部数が1億2000万部を突破した。物語は大正時代を舞台に鬼にされた妹を助けるために戦う少年を描いた冒険活劇。

投打二刀流の日本人選手がメジャーMVPに

2021年のメジャーリーグのMVPを投打二刀流で活躍した日本人選手が満票で受賞した。日本人のMVPは2001年以来二人目。4年目となった今シーズンの最終成績は投手としては9勝、156奪三振、バッターとしてホームラン46本、100打点、26盗塁で、史上6人目の「ホームラン45本、25盗塁」を達成するなど投打ともに自己最高の成績をマークし、7月のオールスターゲームでは史上初めて投打の同時出場を果たした。

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当時の流行語

1960-1964

所得倍増
当時の内閣下で策定された長期経済計画。実質国民総生産は約4年、国民一人当り実質国民所得は約7年で倍増した
地球は青かった
世界初の有人宇宙飛行に成功した宇宙飛行士が地球帰還後に発した言葉。
C調
お調子者、調子の良い行動。バンドマンが使用した逆さ言葉から。
バカンス
この年にヒットした歌謡曲から。前年に公開されたイタリア映画のタイトルから「バカンスルック」などリゾートアイテムにも使用された。
みゆき族
銀座のみゆき通りを歩くアイビースタイルの若者たちのこと。

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当時の流行語

1965-1969

フィーリング
感じ、気分を表す新しい外来語として流行
しあわせだなぁ
映画の主題歌として大ヒットした曲のイントロに入るセリフ。
昭和元禄
新都知事が選出されるなど、これまでにない変化が訪れ、昭和の”元禄”時代の到来。
グループサウンズ
ジャズ喫茶、ゴーゴー喫茶を中心に活動したエレキ(ロック)バンド。その多くがリードヴォーカル、エレクトリックギター、エレクトリックベース、ドラムスといった編成をとっていた。
やったぜ、ベイビー
TV番組司会者が番組の中で、何かに成功したり、クイズに正解した時などに使った。コント番組でも使われ流行語になった。

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当時の流行語

1970-1974

三無主義
60年代の学生運動後の若者の無気力・無関心・無責任な気質を指し、「しらけ世代」とも呼ぶ。
ピース、ピース
米国で反戦の象徴とされていた指で示す「ピース」サインが日本のTV番組で初めて使用。翌年にはCMにも登場して、一気に広まった。
恥ずかしながら帰ってきました
元日本兵がグアム島のジャングルから帰国した際に羽田空港で待ち受けていたマスコミ、カメラに向かって言った言葉。
せまい日本、そんなにいそいでどこへ行く
この年の交通安全年間スローガンの内閣総理大臣賞
~は永遠に不滅です
国民的ヒーローであったプロ野球選手が引退セレモニーで言った言葉。「~」は自身のチームを指すが、さまざまに言い換えて使用された。

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当時の流行語

1975-1979

おじゃまむし
カップルの邪魔をしたり、その場の邪魔になる行為や空気を作り出す人のこと。
記憶にございません
国会で証人喚問に呼ばれた際に。証人が繰り返し答弁として使用したことで流行した。
カラオケ
カラは「空」、オケは「オーケストラ」の略。楽曲の伴奏部分だけを録音したもの。
フィーバー(する)
同年日本で公開されたディスコが舞台となった映画から、熱狂する様を指して使用された。
ナウい
「NOW」の和製形容詞。現代的な、新しい、流行の、おしゃれなといった意味。

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当時の流行語

1980-1984

ヘッドホン族
ポータブルカセットプレーヤーをヘッドホンをしながら街で聴く若者のこと。
んちゃ
「こんちゃ(こんにちは)」を略したことば。1981年から1986年にかけて放送された人気アニメの主人公のセリフ。
森林浴
林野庁長官が海水浴、日光浴などになぞらえて発案した新語。「森の香り浴び、心身鍛える」という概念。
義理チョコ
バレンタインデーに女性が男性に想いを伝えるチョコを、会社の同僚や上司に普段の感謝の思いを伝えることへと拡大解釈され定着し、プレゼントされるチョコ。
教官!
客室乗務員の訓練生が主人公の人気TVドラマから流行した。

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当時の流行語

1985-1989

イッキ!イッキ!
大学生サークルのコンパがその発祥とされる酒を飲む時に周囲が囃し立てる掛け声。
新人類
1950年代後半~60年代前半生まれの世代をさしたマーケティング用語。団塊の世代、しらけ世代に続く、TVやマンガに人格形成の影響を受けたオタク第1世代。
JR
「こくてつ」に変わって新しく使用された鉄道会社名。それまで東京近郊の電車「国電(こくでん)」に対する新たな呼称は「E電(いーでん)」と命名されたが5年ほどで消滅した。
シーマ(現象)
バブル時代の象徴的な現象として高級・高価格なもの(シーマ)が飛ぶように売れること、消費者の旺盛な購買意欲をそう表現した。
平成
この年に始まった新元号。「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味。

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当時の流行語

1990-1994

バブル経済
中身のない泡がはじけるような経済状態。実態以上に経済が膨らみ、見せかけの繁栄を作り出した状態。
紺ブレ
当時流行した金ボタンのネイビー(紺)のブレザー。
もつ鍋
博多が発祥とされる牛もつ、ニラ、キャベツ、ニンニク、唐辛子の鍋料理。バブル崩壊とともに福岡から関西、東京に広まった。
サポーター
この年にスタートしたサッカーのプロリーグから広まった用語。特定のチームの支持者、後援者。
就職氷河期
バブル崩壊後に企業が新卒採用人数を減らしたため訪れた厳しい就職活動期のこと。

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当時の流行語

1995-1999

変わらなきゃ
日産のCMで前年にプロ野球史上初のシーズン200本安打を達成した野球選手が言ったキャッチコピー。
チョベリバ チョベリグ
「超very bad、超very good」の略。女子高生、コギャルの使用していたのが発祥と言われる。
マイブーム
自分の中で起きているブーム、流行、集めているものなどのこと。
ハマの大魔神
この年にプロ野球のリーグ優勝、日本一となった横浜のリリーフエース。防御率0.64、当時のプロ野球記録となる45セーブの成績で優勝に貢献、MVP に選ばれた。
カリスマ
元来はギリシア語のギリシア語で神の賜物を意味し超自然的、非日常的な能力や資質のこと。ファッションリーダーとして若い女性に強い影響力、販売力を持つブティックの販売員を雑誌がカリスマ店員と呼んだことから広まった。

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当時の流行語

2000-2004

パラパラ
上半身を手と腕の決められた振り付けだけで踊るディスコダンス。90年代にユーロビート流行とともにブームとなり、2000年はTV番組から火がついて第3次ブームと言われる。
明日があるさ
CMとテレビによって制作されたドラマのタイトル。1964年にヒットした同名曲の新たなカバーもヒットした。
タマちゃん
8月に多摩川に現れたオスのアゴヒゲアザラシの愛称。
へぇ~
TVの人気バラエティ番組から。雑学のうんちくを採点する数量として「へぇ~」ボタンが使用された。
チョー気持ちいい
この年開かれたアテネ五輪で日本人の男子競泳選手が金メダルを獲得したレース終了後、プールサイドでのインタビューで発した言葉。

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当時の流行語

2005-2009

ブログ
Web-logの略。WEB上に個人が書き込む日記や写真などの情報。総務省の発表で2005年3月の登録者数は約335万人、閲覧者は約1650万人で、この年の流行語に選出された。
脳トレ
簡単な計算や音読などによって脳を活性化させる中高年に向けてのゲームソフトから流行語に。
どんだけぇ~
本来は「どれほどの」の口語。TVのバラエティ番組などで特に意味を持たせず、強調して使用する事で流行した。
上野の413球
この年に開かれた北京五輪で優勝した女子ソフトボールの決勝トーナメント2日間の3試合で延長戦2試合を含め、計28イニングを一人で投げ抜いた投手と球数をたたえて流行語となった。
ファストファッション
短サイクル多品種低価格を売りとする若者向けのグローバルブランドの総称。原宿を中心に続々と日本初となるブランドが大型店をオープンさせた。

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当時の流行語

2010-2014

〇〇なう
Twitterので使用されることで流行したNOWの過去形。この年からリツイートが可能になり国内利用者が1000万人を超えた。
スマホ
スマートフォンの略。携帯電話に比べてパソコンに近い性質を持った情報機器。
手ぶらで帰らせるわけにはいかない
ロンドン五輪で400mメドレーリレーで銀メダル獲得後に、前回金メダル2個を獲得している先輩をメダルなしで帰らせるわけにいかないと、レース終了後プールサイドで言った言葉。
今でしょ!
予備校講師のCMでのセリフ。「今やるしかないでしょ」の意味。
壁ドン
少女漫画でよく描かれる壁を背にした女性に対し、イケメン男子が壁にドンと手をつき顔を接近させるポーズ。女性憧れのシチュエーションとしてブームとなった。隣の部屋から「うるさい」と壁をドンと叩かれるシチュエーションとの混同も。

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当時の流行語

2015-2019

ドローン
無線操縦で飛行する小型無人機。カメラを搭載した空撮用ドローン、ドローンレース、農薬散布などの農業用ドローンなど、当初の軍事用からその活用範囲が広がっている。
聖地巡礼
マンガ、アニメ、映画、ドラマなどの熱心なファンが作品に関係の深い場所を「聖地」と称して巡り訪れること。コンテンツツーリズムとも呼ばれる。
インスタ映え
SNSなどの画像投稿に映える演出を施すことや場所、モノ。
eスポーツ
コンピュータゲームをスポーツ競技として捉えた名称。Electronic Sportsの略。2018年2月には、プロライセンスが獲得できる大会が開催された。
タピる
2000年ごろから流行した「タピオカドリンクを飲む」という意味。女子中高生から始まった。

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当時の流行語

2020-2024

オンライン○○
「オンライン飲み会」「オンライン会議」などインターネット上で行う行動、行為。新型コロナ禍でリモートワークが増えたことから使用機会が増えた。
ジェンダー平等
世界経済フォーラムが発表する「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野のデータにおいて男女格差を測るジェンダーギャップ指数で日本が156カ国中120位と、先進国として異常な低位であったことから表出した日本の社会問題。
メタバース
MetaとUniverseの造語。コンピューターやインターネット上に作られた仮想空間。現実とは違う3次元の空間に人々が交流するサービス。

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ファッション 音楽シーン

1960-1964

写真:ocean_nikonos - stock.adobe.com

ステレオ、カラーTV、アイビー到来

1958年に“ステレオ”LPが誕生。レコードやラジオなどのオーディオがモノラルからステレオに移行していく。トランジスタラジオが一般に普及。アンサンブルステレオと呼ばれるプレーヤーとアンプ、スピーカー、ラジオ一体の家具調キャビネット型が人気を集めた。TVと一体型になっているものもあり、カラー放送の開始とともに歌謡曲はルンバ、タンゴ、チャチャチャ、ドドンパといったラテンのリズムを取り入れたものからハワイアン、ロカビリー、ツイストなど明るい曲調がヒットチャートをにぎわした。
ファッションはメンズではオープンカラーの半袖シャツやニットジャケットなど軽快なスタイルが好まれ、六本木族や野獣会と呼ばれるタレントや富裕層の若者たちのグループがマスコミで取り上げられた。1964年頃には銀座にみゆき族と呼ばれるアイビースタイルの若者が登場する。女性にはシャーベットトーンが流行。1960年に新しく就任したアメリカ大統領夫人やフランスの人気女優のスタイルに代表される若々しさを持ちながらスポーティーで溌剌(はつらつ)として、品のあるファッションを女性たちは模範とした。オリエンタルな柄や紋章など日本の伝統的な文化も見直された。

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ファッション 音楽シーン

1965-1969

写真:DeshaCAM - stock.adobe.com

スウィンギン60‘s時代、ゴーゴークラブとグループサウンズ、そしてサイケデリックへ

カラーTVが各家庭に普及。世の中は俄然、色づき始め、ヒッピーやサイケブームが到来する。高度経済成長期をいざなぎ景気と名付けられたのは1968年のこと。GNPで世界第2位となり、その頃には新たに電子レンジ(Cooker)、別荘(Cottage)、セントラルヒーティング(Central heating)が新3Cとして、所得の増加とともに生活の豊かさを象徴するようになっていく。
60年代半ばからはスィンギン60’sと呼ばれ、英国ファッションが世界をリードし、日本でもグループサウンズの影響から男性の長髪がブームとなり、メンズでもパンタロン、サイケデリックといった派手なスタイルが若者を中心に流行。孔雀になぞらえた「ピーコック革命」と呼ばれる現象が世界を席巻していく。1968年頃からメキシカンルック、エキゾチックもトレンドとなった。日本最初のディスコと称されるゴーゴークラブが誕生。男性はトラッド(アメリカントラッド)、ヨーロピアンスタイルのコンチ(コンチネンタル)、黒人ミュージシャンスタイルのコンポラ(コンテンポラリー)のスーツで決めた芸能人や有名小説家、デザイナーやカメラマンなどが夜な夜な集い、日本のポップカルチャーが育まれた。

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ファッション 音楽シーン

1970-1974

写真:Patrick Daxenbichler - stock.adobe.com

ラジカセの普及、アイドル

万博開催などの影響から海外からの文化、情報がさまざまな分野に影響を与えていく。世界的なウーマンリブ(女性解放運動)から新しいファッション誌が次々に創刊し、ファッションにおける個性化が重要さを増した。洋服だけでなく衣食住を含めてトータルなライフスタイルのセンスを楽しむ時代が到来する。ゴルフブームと共に海外ブランドのワンポイントマークの入ったポロシャツがブームとなる。
日本の歌謡曲シーンはカラーTVの普及でアイドルが次々にデビュー。新御三家と呼ばれるタレントが芸能界を席巻していく。その一方でTVメディアに出演しないフォークシンガーたちがラジオやライブで人気を得て、レコードの売り上げを拡大。それまでのオープンリールでのテープレコーダーからAM/FMラジオとカセットテープが一体になったラジカセが身近なモノとして家庭に浸透していく。個人で録音する機会が増えたことで加速したSSW(シンガーソングライター)ブームは日本語で表現するロックへと広がりを見せた。1973年に円の変動相場制が再スタートしたこともあり、洋楽アーティストの来日が増えただけではなく、海外で公演を行うバンドも登場した。

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ファッション 音楽シーン

1975-1979

写真:Anna Khomulo - stock.adobe.com

アイビーからニュートラへ、ディスコ音楽と“軟派”な時代へ

映画やTVドラマの主役にグループサウンズ出身の歌手やアイドルが起用されるようになった。メンズファッションはそれまでのアメリカのアイビー、トラッドからロンドン、パリのヨーロピアンスタイルに二極化し、トレンチコート、スリーピース、バギーパンツなどが流行する。デニムもヨーロッパブランドのものがレディースを中心に人気を得、神戸からニュートラと呼ばれる海外有名ブランドを取り入れたコーディネート、横浜でハマトラと呼ばれるキャンパスファッションが注目を集め出す。アイビーから米西海岸に代表されるアメリカンカジュアルに移行したサーファーブームとともに時代は“硬派”から“軟派”へ移行し、映画のヒットの後押しによりディスコブームへと繋がっていく。
日本の音楽シーンはアイドルポップスが全盛期を迎え、振り付けを真似るアテ振りが流行。原宿で竹の子族が誕生した。ロックアーティストのヒットシングルも生まれ、この頃から世界的にロックは若者たちだけのものでなくなり、AORというジャンルが登場し。レコードの売り上げが急増。音楽業界の好況期が到来し、エンターテインメント産業が成熟していくが、それに反発する動きとしてパンクやニューウェーブといった既存のロックを否定するムーブメントがロンドンやニューヨーク、日本などで発生。その動きはシンセサイザーの進歩によりテクノ音楽と結びついていく。

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ファッション 音楽シーン

1980-1984

写真:shaiith - stock.adobe.com

時代は軽薄短小、フィットネスなライフスタイル、ポップでテクノなカルチャーへ

1979年に発売された“小さな”ポータブルカセットプレーヤーの大ヒットに代表されるべく、1980年代に入り産業構造は高度成長期の大量・大型化を目指してきた「重厚壮大」から、「軽薄短小」への変化が顕在化していく。テニスやジョギングのブームからスポーツファッションがシティファッションとして定着。フィットネスという言葉もこの時代に誕生した。70年代後半に原宿のホコ天でローラー族として誕生したストリートで踊る若者たちは、ディスコ族から竹の子族へとファッションは奇抜さも一つのスタイルとして定着。デザイナーブランドの全身黒のカラス族も登場した。70年代後半に誕生した高級ディスコがエントランスで服装チェックを行い、白人音楽のユーロビートが中心になっていったことで、パンクやニューウェーブといったロンドンやNYのストリートカルチャーの影響を受けた層がクラブという新しいカルチャーを生み出していく。
“薄く”持ち歩きやすいファッション情報誌が好まれ、DC(デザイナー&キャラクター)ブランドが続々と誕生。地方都市にファッションビルが建設され、レディスのブティックのテナントが次々にオープン。クリスタル族と呼ばれるイタリアンカジュアルに身を固めた裕福な大学生やサラリーマンたちがハウスマヌカンとディスコに溢れ、ファッションを競った。テクノカットと呼ばれる襟足を“短く“刈り上げたヘアスタイルとともに音数の“少ない”テクノポップがディスコサウンドやロックと結びつき、“軽い”フュージョンサウンドがポップミュージックの流れとファッションを変えていく。楽器や機材におけるデジタルの進歩はデジタルシンセ、シークェンサーの登場によって、従来のレコーディング手法を一変させ、サウンドの流行を生み出す役割はミュージシャンからプロデューサー、エンジニアの重要性が増した。さらに1980年に誕生した音楽専門チャンネルにより、ストーリー性のあるミュージック・ヴィデオ・クリップが世界的なヒットの条件になっていく。

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ファッション 音楽シーン

1985-1989

写真:BublikHaus - stock.adobe.com

DCブームから渋カジ、放送メディアの多様化はバンドブームへ

ファッションはDCブランドの人気が継続し、次々に新ブランドが誕生。リセール店(DCブランドの古着)もこの頃に誕生する。カフェバー、ビリヤード台の置かれたプールバーなど、1986年をスタートとするバブル景気とともに飲食店も新しいコンセプトを沿った形態に変化していく。インポートのハイブランドが人気を集め、セレクトショップが多様化。メンズは若者が集まる渋谷がファッションの街として注目され、「渋カジ」と呼ばれるアメカジアイテムをコーディネートしたストリートファッションが首都圏を中心に、関西ではインポートのイタリアンカジュアルがブームとなった。女性ファッション誌などで各都市の着こなしを比較するストリートスナップもこの頃に雑誌の企画でスタートし、リセと呼ばれるフレンチカジュアル、長い髪に体のラインを強調したファッション、英国妃の来日の影響からコンサバリッチなどDCブームの翳りとともに大人なスタイルへと変化を見せていく。
音楽はレコードからCDへと移行し1986年にはCDがLPレコードの販売枚数を上回った。有線放送、ケーブルテレビ、衛星放送、音楽専門チャンネルとメディアが拡大したことでエンターテインメント市場は広がりを見せた。その背景もあって70年代後半から80年代前半の第1次ブームに続いて、第2次バンドブームが起こり、ヒットチャートをバンドが賑わしていく。インディーズと呼ばれる自主制作レーベルも群雄割拠でライブハウスに人が集まった。アイドルとユーロビートのディスコブームの一方で、大小さまざまなクラブが各都市にオープンしはじめ、クラブのディスコ化という現象が起こり始める。さまざまなジャンルのレコードをミックスしてプレイするDJが登場。DJ用の12インチシングルが登場し。ヒップホップ(ラップ)の流行、LAカルチャーとロンドンのストリートカルチャー、NYのゲイカルチャーなどがミックスされ、クラブは都会の若者の新しいカルチャーとして認知されていく。

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ファッション 音楽シーン

1990-1994

写真:Wayhome Studio - stock.adobe.com

バブル期終焉、イケイケ、渋カジ、J-POPと日本独自の若者文化がブームを牽引

ファッションは80年代後半からのワンレン・ボディコンブームはディスコのお立ち台、後にコギャルへ引き継がれるパラパラと呼ばれるダンス、ラメ素材のブームとバブル期終焉の“イケイケ”なファッションへ。女の子はセブンティーズブームとともにフレンチカジュアル、ルーズソックスなど女子高生の着こなしトレンドが注目される。メンズはDCブームから「渋カジ」が“キレカジ”と呼ばれる紺ブレ、ボタンダウンシャツ、チノパンのヤッピーをお手本としたスタイルに変化。反面80年代後半から渋谷センター街にチーマーと呼ばれる集団が登場。ストリートファッションとして革ジャン、ネルシャツに古着のデニム、ロン毛と呼ばれだした長髪スタイルのグランジ、スケーター、パンツをずり下げるHIPHOPファッションなどが広がり始めた。
音楽はアナログからデジタルに移行。カセットテープからMDへとダビングして持ち歩くデバイスは変化したが、パッケージを購入して聴くという行為は持ち歩けるCDによって継続され、音楽のセールスは好調。CDレンタル店とカラオケのブームによりTVドラマの主題歌から次々とヒット曲が生まれていく。また機材の一般化やMIDIの普及などによって音楽制作の裾野が広がり、80年代後半からのバンドブームで邦楽が人気。J-POPという言葉が誕生し、ヴィジュアル系バンドはインディーズから次々とメジャーデビューを果たし黄金期を迎えていく。一方で洋楽離れが進み、ジャンルの細分化によりファンが分散していった。外資の大型レコード店でもJ-POPが大きくプロモーションされることが増え、新人アーティストのミリオンセラーが誕生していく。

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ファッション 音楽シーン

1995-1999

写真:zu_kuni - stock.adobe.com

コギャル、ヴィジュアル系、独自に進化する東京ストリートカルチャー

ピタT、チビTと呼ばれるヘソだしルックがブームとなる一方でプリティコンサバと呼ばれる保守的なネオトラッドなルックの支持が女性に高まる。このころから「カワイイ」という表現がファッションのなかでポップな表現として定着。ガーリー文化が注目され、人気女性シンガーのファッションを真似ることやハイブランドの熱烈な支持者を「~ラー」と呼び、それは渋谷に集まる茶髪日焼け肌、LA風のコギャル・ファッションとして大ブームとなる。90年代後半には髪を白く染めガングロ(顔黒)にメイクをしたヤマンバファッションまで生み出し、日本独自の渋谷カルチャーが育っていく。メンズは原宿の裏通り古着ショップやセレクトショップがブームに。ロンドンやLA、NYのストリートブランドと東京のショップブランドが“裏原”ブームを巻き起こし、ファッションの流行も音楽同様に、東京独自の文化が誕生し始める。
“渋谷”はファッションから音楽にその影響が拡大し、10代女性に圧倒的な支持を得たガールズシンガーが次々とヒットチャートを独占。90年代半ばから「渋谷系」と言われるお洒落なサウンドが支持されはじめる。伊や仏の映画音楽や「ニューソウル」に代表されるそれまで知られていなかった“レア”な楽曲が注目される。その背景にはDJスタイルのクラブパーティーの多様化、サンプリングの一般化などと関連して、日本独自の「オタク文化」が写真やデザイン、ファッション、インテリア、雑貨などすべてのジャンルを横断し、“サブカル(チャー)”として再編集されていったことが大きい。ヴィジュアル系バンドはソフトヴィジュアル系を加え大ブレイク。日本語ラップもヒットチャートを賑わすようになる。1997年に国内の音楽メディア(レコード、CD、テープ)の売り上げがピークを迎え、CDの売り上げは1998年がピークとなった。世界的にDJリミックスという新しい手法、コンテンツが音楽市場を活性化していくが、PC、インターネットの普及により音楽の聴かれ方は変化していく。

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ファッション 音楽シーン

2000-2004

画像:yotto - stock.adobe.com

携帯からインターネット、ミックスチャーが進み、メンズはスリムにレディスはセレブ風、北欧デザインとスローライフへ

急速に進むデジタル化によって音楽産業は大きく変化していく。2001年に携帯電話でインターネットへの接続ができるようになり、日本独自の着信メロディなど音楽配信のシステムが誕生した。2000年代は野外ロックフェスが各地で開催されるようになり増加。ラップとロック、レゲエや沖縄音楽などジャンルのミクスチャーが進み、テクノやメタル、ラウドロック、J-POPなどジャンルを特化したフェスや、海外アーティストと日本のバンドの共演など多様化することでメジャー、インディーズの垣根を超えて集客力を増した。またディーヴァ現象といわれる女性シンガーブームが到来。カリスマシンガーや女性アイドルグループが巨大なマーケットを築き、HIPHOP、R&Bブームに乗って次々に新人がデビューし、新たなシーンが生まれていく。
ファッションは渋谷が牽引する「kawaii」カルチャーが世界に拡大。厚底ブーツ、ミュールが流行し、ゴスロリと呼ばれる原宿のストリートファッションも世界に知られていく。日本のストリート系若手デザイナーがパリやNYなど海外に進出し、プレッピーが再びブームに。メンズはスリム化し、黒のタイトなスーツに細身のネクタイが流行。レディスではゆるカジやふわカジと呼ばれるゆったりしたデニム、パーカースタイルが人気を集め、人気モデルや女優のLAセレブファッションの影響もあり2003年に流行語となったスローライフに代表されるサーフィン、北欧デザイン、ロハスといった“スロー”でナチュラルな生活スタイルが注目される。一方、90年代後半にフリースブームを巻き起こし人気となったリーズナブルブランドが店舗を拡大。2001年以降のハイファッションの低迷もあり、ファストファッションという新たなカテゴリーが海外ブランドの出店加速で形成されていく。

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ファッション 音楽シーン

2005-2009

画像:nali - stock.adobe.com

インターネット、ブログから始まる新たなブーム、セレブカジュアル、ダンス、ボーカロイド、アニソン、K-POP

IT化の波により、トレンドはインターネットから発信される時代へと変化する。ブログに注目が集まり「個」の発信力の影響がファッション、音楽だけではなく消費全般に高まっていった。ファストファッションブームの勢いが加速し、日本のメーカーは機能素材アイテム、海外ブランドは短サイクルな商品展開と有名デザイナーとのコラボなどで市場のトレンドを生み出していく。同時にスポーツブランドのスニーカーに端を発したハイテク化、デザイナーとのコラボブランドなどショップスタイルが変化。
ファッション誌の読者モデルやカリスマモデルを起用したファッションショーがセレブカジュアルとしてマーケットを広げ、赤文字系(ファッション誌)と共にブームとなった。反面メンズは「ちょいワルオヤジ」に代表されるイタリアンな着こなし、ワインなどがアナログ世代に支持される。若者にはお兄系、ギャル男、センターガイといった渋谷スタイルが話題となりデジタルネイティブとアナログ世代のギャップが生まれ始める。
音楽はインターネット配信によって手軽にさまざまな曲が聴ける時代に。ダンサーを含めたボーカルユニット、ダンスが主となる楽曲が次々に登場。K-POPアイドルの活躍は以降の韓流ブームの足がかりとなった。2008年には文科省がダンスを中学の必修科目に追加。ブログからバイラル動画と呼ばれるコンテンツが世界ヒットとなる時代となり、ボーカロイドやアニソンなどインターネットを介してコミュニティが形成されブームが広がっていく。それはアイドルも同様で新しい動画を真似てコピーすることで新しいスターが生まれるという循環がネットのなかで誕生していった。またインターネットを通じて日本の音楽が世界に拡散。70~80年代のシティポップスがvaporwaveという新しい欧米の音楽ムーブメントによってサンプリングされ、逆輸入により日本で話題になるという現象も起こり始めた。

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ファッション 音楽シーン

2010-2014

写真:Prostock-studio - stock.adobe.com

インフルエンサーの台頭、ノームコア、スマホとダンスで視聴から共有へと変わる音楽シーン

スキーウェアブランドやアウトドアブランドがウィメンズを強化し、デザイナーを起用してコレクションを充実。ストリートスナップがブームとなりライダース、フーディー(パーカー)、ショートパンツといったパンクやグランジなどロックやスケーターたちのアイテムがベーシックなワードローブになる。あらゆるカテゴリーがミックスされ、ハイブリッドという言葉はファッションの重要なキーワードとなっていく。トレンドを生み出すのはブロガーやファッショニスタと呼ばれる一般のインフルエンサーの着こなしがファッションの最前線を占めるようになっていく。
ジェンダーレスなファッション、男性のスキンケア、メイクが話題となる一方で、ノーマルとハードコアの造語「ノームコア」と呼ばれるスタイルが注目される。変化するモードファッションとは対極にあるこのスタイルが支持された背景は、「エシカル(倫理的な)」という消費行動に基づくライフスタイルへの転換期であったことも大きい。
音楽シーンはスマートホンが普及したことによりデバイスに保存した楽曲だけではなく、ネットを介してあらゆる音楽を時差なく体験できるようになった。レコーディング機材がダウンサイズしたことで音楽制作は大きく変化。2012年にほぼ全ての中学で男女共にダンスが必修科目となったこともあって、フェスやライブで共通した振り付けで踊る共有感は、試聴型から体験型へと移行する音楽の重要なターニングポイントとなった。2013年頃からEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)と呼ばれるジャンル。四つ打ちドラムにシンセリフ、スネアロール、オートチューン(加工されたボーカル)のお決まりダンスチューンが全世界を席巻。2014年9月には日本初のEDMフェスがお台場で開催され、2日間で4万人が集まった。

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ファッション 音楽シーン

2015-2019

写真:metamorworks - stock.adobe.com

サブスクで所有から共有へ、エフォートレスなオーバーサイズ、アスレジャーが牽引するブーム

世界の音楽産業は2015年にデジタル配信がパッケージの売り上げを上回った。日本でも次々とストリーミングサービスが開始され、サブスクリプションサービスが普及していく。従来のタイアップやメディアでの販促とは全く違い、世界中のインフルエンサーからSNSによるシェアよって瞬時に拡散されることで、グローバルにダイバーシティな新人が誕生。その流れが日本では「オシ(推し)」という言葉によって広まっていく。アニソンの記録的なセールス、日本語ラップのシーンの広がり、ダンスと共にアジアで人気が拡大するガールズグループも国内のみならず海外からの支持者による「オシ」が新しい時代を形成していく。
国内アパレルはジェンダーレスの流れから変化した「エフォートレス(肩の力が抜けた、ストレスのない)」なオーバサイズブームと「アスレジャー(アスレチックとレジャーの造語)」があった。フィットネスやヨガ、ボルダリングやトレイルラニングなどの競技用ウェアやワークウェアを街着としてリ・スタイリングすることで新しいマーケットが発生した。洋服だけではなく「グランピング」という新しいキャンプスタイルまで誕生させた。さらにスマホの普及によるオンラインショッピングの隆盛で、ポピュラリティのあるブランド、グラフィティのキャラクターやわかりやすいテキストなどが使用された商品がファッションにおいてもバイラルループし、リセールしやすいアイテムが話題となる。ロゴブームやトラックスーツ、パンツのサイドライン、ダッドスニーカーと呼ばれる厚底スニーカーアイテムの流行へと広がっていった。

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ファッション 音楽シーン

2020-2024

画像:Irina 27 - stock.adobe.com

所有から共有・表現するメディアとしての音楽、ファッションはリサイクルとヴィンテージ、SDGsとメタバースへ

音楽はスマホで聴くことが主流となり、世界の音楽産業は2015年にデジタル配信がパッケージの売り上げを上回った。日本でも次々とストリーミングサービスが開始され、サブスクリプションサービスが普及していく。特に2020年代に入ってから音楽はユーザーにとって所有するものではなく共有する意識が高くなった。SNSの普及でダンス、ラップなど音楽は自己表現のアクティブな側面を持ち始める。一方、米国で2020年上期にアナログレコードがCDの売り上げを上回り、さらにカセットテープがラジカセとともにブームの動きも見え始め、グラフィックやプロダクトデザインを購入するファッション的な動機が背景にある。
ファッションは21世紀に入ってからのカジュアル指向、低価格化が進行し、市場はラグジュアリーストリートと呼ばれるヘリテイジのあるブランドと低価格なワークウェアブランド、アスレジャーブランドに二極化。環境への配慮からサスティナブル、リサイクルはファッションビジネスにおける重要なキーワードとなった。スニーカーブームはオンラインで新たなプラットフォームを生み、デザイナーのヴィンテージだけの古着セレクトショップが誕生。メンズ・レディスともにエフォートレスなビッグシルエットなコート、ノーカラージャケット、グルカサンダルといったアイテムが流行するもののアパレルはSDGsの対応が必須となった。
ハイブランドからは日本アニメのキャラクターやアートとのコラボによるネットやSNSで共有しやすいアイテムの発信が相次いだ。さらに2010年代から試験的に行われていたファッションショーで見たものをすぐ買える「see now buy now」という販売方法が再注目。デジタル配信ですべてのユーザーにオンラインで視聴でき、情報が共有される時代に向けての変化ながら、アーリーアダプターはメタバースでハイブランドやアーティストが発表するNFTアイテムを所有することへの価値を発信しており、フィジカルなファッションとVR上のファッションという異次元の二極化が始まっている。

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